九州征伐最大の功労者は藤堂高虎だった! | 福永英樹ブログ

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 拙著では4ページ程度で説明した豊臣秀吉・秀長兄弟の九州征伐(VS島津義久・義弘兄弟・1587年・天正15年3~4月)ですが、この戦で一番の大手柄をあげた藤堂高虎(秀長家老)の活躍をもう少し詳しく記していきたいと思います。


 豊臣秀次大坂城に、前田利家聚楽第にて留守を任せた秀吉は、22万人の兵を率いて九州筑前国に上陸。うち10万の兵を秀長に渡して日向国方面に向かわせ、自身は12万の兵で肥後国方面を進軍していきます。秀長に従った主な大名は、黒田孝高・蜂須賀家政・小早川隆景・宇喜多秀家・長宗我部元親です。

 豊前国・豊後国をすぐに制圧した秀長軍は、次いで日向国南部の要衝である高城を包囲しますが、島津氏きっての勇将山田有信が城将だったこともあり容易に落とせませんでした。秀長は、城の南方の小丸川を見下ろす根白坂という細長い丘陵地に東西に布陣。最前線に近江国出身の大名である宮部継潤(高虎とは旧知の仲)を置いていましたが、島津兄弟率いる二万の兵が中央突破の勢いで真正面から攻撃をかけてきます。不意を衝かれた継潤の隊は総崩れ寸前に追い込まれます。これを見た秀長は即刻救援の命令を全軍に出そうとしますが、秀吉が付けた軍監(戦目付)の尾藤知宣が止めに入ります。


 しかしこれを振り切った秀長(実は継潤の友人だった高虎の独断とも言われています)は、進軍を命じます。高虎は600人の手兵を率いて先頭に立ち、

『後詰には秀長様の10万の大軍が攻め寄せてくるぞ! 我は先方の藤堂高虎なり!』

 と大声で叫びながら敵中に突入したと言います。高虎は、188cmの長身に唐冠様の大兜をかぶって大身の槍を振り回したと言いますから、さぞかし敵は恐ろしかったに違いありません。藤堂隊の力を得て態勢を取り戻した宮部隊は何とか踏ん張り、さらに黒田隊・宇喜多隊・小早川隊島津軍の後ろ側に回って挟み撃ちしたため、さしもの島津軍も一時総崩れになりかけます。


 それでもやがて陣形を整えた島津軍でしたが、秀長軍の様子をうかがっているだけで、積極的に攻めてこようとしません。高虎秀長に献策します。

『これはきっと敵方は、夜襲をかけてくるつもりでございます。こちらから一刻早く夜襲をかけたいと存じます』

 秀長の許しを得た高虎は、1000人の兵全員に軽装させ、馬の口に枚をかまし(声をださせないように)、暗くなるのを待って、声を静めて島津軍の真っ只中にに攻め込みます。さらに、中央を攻めるかと思えば右に転じ、また左に転じるという引っ掻き回しの戦術を駆使します。

 これには最強を誇った島津軍も大混乱し、総崩れして退却。ここで遂に豊臣兄弟島津兄弟との勝負に決着をつけたのでした。



■考えてみれば、島津軍九州征伐の前哨戦で豊臣軍の長宗我部信親を戦死させるほどの強さを誇っており、後の朝鮮出兵でも朝鮮軍から最強だとおそれられたほどの強さだったのです。その最強部隊を破ったわけですから、高虎の勇猛ぶりと戦術の巧みさは群を抜いていたということですね。まあ高虎を上手く使った秀長も、当然称賛されるべき上司といえるでしょう!