豊臣秀長病死の直後、彼の宗教政策により既得権をはく奪されていた奈良興福寺の高僧多聞院英俊は、日記で次のよう秀長を非難しています。
「郡山城の備蓄金を確認したところ、金子56000枚、銀子は4メートル四方の部屋一杯に積み上げられて枚数も判らないほどだったが、死んでしまっては役立たないから、さぞ命が惜しかっただろう。浅ましいことだ」
非の打ち所のない人格者と言われた秀長の唯一の汚点は、蓄財癖、つまり守銭奴であったという風評でした。また奈良の史書でも、奈良の金融商人が、秀長を後ろ盾として、法外な高利で無理貸しを行ったと記録されています。
既得権をはく奪された側の記録のため、真実とはおよそかけ離れたものであると思われますが、少なくとも秀長が、何らかの目的のため、商業資本への積極的投資により金銭を運用しようとしたしたことは間違えのない事実のようです。では、真実はどうだったのでしょうか?
小説の中でもふれていますが、秀吉・秀長兄弟が織田信長の下で台頭した理由の一つに、他の織田家大名たちと比較して、抜群の経済力や財務力があったことがあげられます。
鳥取城攻略の際には予め城内の米を時価の数倍の値段で買占め効果的な兵糧攻めを行い、備中高松城の水攻めには莫大な土俵費用と人件費を要しています。これ以外にも秀吉・秀長兄弟の戦争は、いかに大量の兵糧や弾薬を調達し、それを適所に迅速に配分するかにかかっており、高い経済力は不可欠なものでした。 これらはすべて、秀長と堺商人でもあった茶人千利休の協力関係による功績であると、私は考えています。
前回の投稿でお伝えした通り、秀長が統治した大和郡山城下の箱本制度は、利休のバックボーンである堺商人の自治組織と通じるものがあり、二人は財務政策以上の深い価値観を共有していたものと思われます。 秀長と利休は泰平の世の到来にあたり、支配階級の指向を土地(年貢)獲得から、法に則った競争による金銭獲得(商い)に方向転換させようとしました。理由は、限られた国内の土地をいつまでも争っていては、恒久的な平和の維持ができないからです。
ただ、そうはいっても、実質的に商業活動を行うのは商人(商業資本)であり、支配層(関白・諸大名)が彼らから充分な課税をするということは、簿記・棚卸・予算・決算などという技術や、税務署という組織もなかった当時では不可能なことです。何しろ、国が商業資本の売上や利益を正確に把握し組織的に課税していくという体制が整ったのは、明治維新後です。
二人は、困難な商人からの課税の代わりに金融投資による金銭運用という方法で、支配階級の恒常的な金銭確保を実現しようとしたものと思われます。
これらの推測の根拠は、後の江戸幕府の財政が商業資本の台頭により逼迫し、ほとんどの大名の財政が大商人に牛耳られていたことにあります。秀長や利休の時代は、金銀の産出が盛んであり、流通経済もまだまだ未発達であったため武家の収入源である米の価値も高かったのです。
商業資本の利用価値も、恐ろしさも理解していた二人は、商人たちの力が取り返しのつかないところに行く前に、投資による利益還元という方法で彼らの首根っこを押さえて行こうとしたのです。
こうして見ていくと秀長が商売好きで金銭好きな男に思われるかもしれませんが、彼の基本的なバックグランドは農民・庶民なのです。この小説では、ここのところを強調していますので、ご購読の際には、是非ご確認いただければ幸いでございます。