高いところに居ると、そこから見える低いところと、今居る高いところの間に生じる差分が気になって仕方がないのである。
高所といっても、様々なシチュエーションがあり、遠くに見える落差や、なだらかな傾斜の向こう側のことまでをも気に留めるかというと、そこまでモーレツな高所恐怖症であるということではなく…
どちらかというと急な高低差を伴う高所で、落差の境界線から近い距離に身を置いたときほど、恐れの感情を大きく揺るがされちゃったりなんかしちゃったりするわけなのだ。
恐れの度合いは、妄想によって生じる『万が一落下したときに受けるであろうダメージや、遺体損傷の度合い』に比例するのであり、その恐れの至極の到達点は、死に対する恐怖なのである。
死に至る際に伴う覚悟と、現時点で自分が持ち得ている覚悟との差分に伴う、焦燥を帯びた違和感である。
このことから、人には恐れが生じたときに、恐れの対象物を正確に認識できていない場合があるのだ、と言う事がわかるのである…のである。
なので高所恐怖症である私の場合は、自分の高所恐怖症を構築する一つ一つの要因を、丁寧に分析して行く事によって、恐れのメカニズム、そして己が恐れているものの正体が、次々と明るみになり得るのである。

そこで、高所恐怖症の私が、高所恐怖症たる所以を分析してみることにするのである。
それは…
高所が及ぼす威圧感・違和感であり
それに影響を受けてしまうことに対する敗北感・罪悪感であり
『ここから落ちてはいけない』という自尊心・責任感であり
『落ちたくない』という欲望であり
怪我という結論に伴う痛みに対する嫌悪感であり
死という絶対的なエネルギーに対して抱く絶望感・信仰心であり
落下に伴う不確定要素に対する、不信感・不安感であり
生きることへの執着であり、死への恐れなどであることがわかるのである。
そして死への恐れは更なる生への執着を生み、生への執着と絶望の先には、死という万民共通のアトラクションが待ち受けているのだ。
そのサイクルの中で、わたしたち全ての人間は、例外なく、自分が生きて行く上で関わって行く、全てのものに対する執着を生み続けてゆくことであろう。
『執着を捨てなさい』などとのたまう坊主には、こう言ってやれ。
私は忙しいのだけどね…
お前が『私は即身成仏したのだ』というのであれば、言葉を噤み、信仰や使命に対する執着を捨てなさい。
あらゆる宗派や神仏、歴史・畜生道人間界への執着を棄つることです。
私は、お前達とは違い、仏や神などという外因に自分という個性を明け渡す覚悟はなく、存在という責任を果たす為に、自分と名のつくあらゆる宇宙概念に執着するつもりです。
な~んて言っちゃったりなんかしちゃったりする塩梅だったりなんかしちゃったりしてね。
さて、今日も神と戦う為、お前達にテキトーな悪巧みと入れ知恵と戯れを言ってるだけなので、気にせずとも良いのである。
お前も、学校なり会社なり寺なり占いハウスなり床屋なり温泉なり病院なり教会なり、行きたいところに行きなさい。
どうせならば今日は、私に会うために、カットマン一号に来なさい。