詐欺が流行して居る様です。
テレビで言ってました。
最近も『詐欺に会いましたよ。』と言う方とお会いする機会がありました。
先日『僕は、良く人に騙されるんですよ。』と言う方ともお会いしました。
私は『それは大変でしたね。ただ、あなたが騙す方じゃなかった事は、とても喜ばしい事です。ありがとう。』と言っておきました。
人が人を陥れて、己の懐を満たす。
それは昔から有って、怒りや憎しみや妬みと言った…言わば怨念の根源を成し得る要素の一つとして有名です。
現時点で…『実は私、いま誰かに騙されてる所なんです。』って言う人、居ますか?
居ませんね?
居たらまじで困ります。
『騙されてる』っちゅう事に気づいてる人は、その時点で騙されてなど居ないのです。
では、過去に騙されたことがある人は居ますか?
よくそんな事を、いつまでも覚えてますね。
その事を思い出すと、今でも悔しいですか?
あなたの様な人を、人は『根に持つタイプ』と言うのです。
性格が悪いですね。
決して『私、嫌な事が有ってもすぐ忘れちゃう方なんです。』だなんて言って、自分や他人を騙してはいけません。
それはそれとして
私としては…
『過去に騙されようが裏切られようが、良い事も悪い事もあって、今までこうして生きて来れたんだから、別にいいじゃん?
そんな事を根に持って憎しみや怒りを膨らませてばっか居るから、罰が当たって騙されるんですよ。
くだらない過去の不満なんか、さっさと水に流して…
新しい騙しびとの罠に、引っ掛かってあげる位の、気持ちの余裕を持って下さい。
そういう人になって始めて、誰にも騙されない可能性が、高まるんです。
…と言いたいところですが…
それはそれでイイでしょう。
あなたがそうである限り、それは素晴らしい事なのです。
人には、それぞれに割り振られた役割りや次元と、通過する経緯があります。
あなたがどの道をどの位のスピードで通過して、最終的にどこに到着するか、なんていう事は、他の誰にも変えようとしては、ならない事なんです。
では、次に行ってみましょう。
現時点で『実は私、人を騙して居るところなんです。』って言う人、居ますか?
そうしなければ、あなたは生きていけないと感じて居ますか?
『やめなさい。』と、言いたいところですが…
それもイイでしょう。
ただ私は、三次元を生きる『人間の姿形をした生物』として、あなた方を憐れむでしょう。
ただし、幾ら私があなた方を憐れんだところで…
あなたがそうである限り、それは素晴らしい事なのです。
人には、それぞれに割り振られた役割りや次元と、通過する経緯があります。
あなたがどの道をどの位のスピードで通過して、最終的にどの街に到着するか、なんていう事は、それが良い事であれ悪い事であれ、他の誰にも変えようとしては、ならない事なんです。
この様に、騙されたり裏切られたりして、人は生きて居ます。
それが他人だったり…自分だったり。
逆説的に表現した場合
騙したり裏切ったりして、人が生きて居るという事でもあります。
人を騙したり、裏切るのも…
自分を偽ったり、自分を裏切るのも…
一緒です。
『一生の内で一度たりとも、人や自分を騙したり、裏切ることなく生きて来た。』
と、言う人が居たとしたら…
それは自覚のない虚言か
単なる思い上がりです。
素晴らしいあなたでさえ、そうなのです。
罪に対して怒りを抱くのは、人として生きて行く経緯の中では、避けては通れない通過点の一つだと思います。
罪として生きて行くのもまた、人として生きて行く経緯の中では逃れられない通過点なのかも知れません。
ただ、罪は罪、許しても罪のままです。
罪は、単体としては憎しみを育てる要因にはなり得ません。
人の形をした者が罪を罪として裁く時、罪は罪となり、憎しみが形成されるのです。
裁きそのものが罪であるという事を知って下さい。
憎しみを、攻撃の力に変換した時、その事であなたが救われるとしたなら…
それは悲しい事です。
ただ私が、もし罪の犠牲となった時、私の不在を嘆く家族や友人が、憎しみを晴らす為に、生涯の貴重な時間を費やす事など私は望みません。
人の『意識』は、それが偽りのない衝動に基づく時、想像を超えた力を持ちます。
愛に基づく『祈り』が、それです。
そして、怒りや憎しみ、妬みに基づく『呪い』がそれです。
あなたは、罪に対して何を祈りますか?
私は、罪の上に罪が重ならない事を、祈って居ます。
あなたが、罪から受けた被害に、罪で応じない事を、祈って居ます。
そして、人は皆、罪人です。
あなたはどんな罪人で在りたいですか?
愛と余裕の中に生きたいですか?
それとも、
怨念と焦燥の中に生きたいですか?
それを決める権利は、あなただけに与えられて居ます。
相馬 英樹