カップの10 飽満
飽満・過剰・退屈・浪費・持続・依存・ワンパターン
人と云うのは、我儘でして…
平衡の保たれた道を歩いて居ると、
退屈になって変化を求め、
変化の激しく険しい道を歩いて居ると、
そのうち疲れてきて、平らな道を目指して歩き始めるのです。
また、
人が、『正しい道』と『間違った道』を判断する際には、
自分が受けた教育によって培われた考えの矛先が、
指し示す方角に近い程『正しい』と見なし、
反対側を『正しくない』と見なします。
つまり、人が頭を使う時にして居る事の正体は、
偏見を整理することによって、『自我=エゴ』を確立する作業に過ぎず、
人間による善悪の判断など、その程度のものに過ぎないので在ります。
思わず口調がケロロ軍曹の様になってしまいましたが…
つまり人間は、勝手な自分の思い込みである『定義』を外部に押し付けて、生きて行く動物なのです。
そして勿論、それで良いのです。
…が、
僕としては、折角こうしてブログを書いて居る訳ですから、
筆者の特権として主張したい事は、やはりあります。
それは、
たまには、自分の判断ではない『天の声』の様なものに、
『自我に侵食された定義』を無視して耳を傾けて見るのも良いのではないかと思うのです。
それが、『信仰』と云う物ではないでしょうか。
僕は宗教や偏った哲学を共有する集団に属しては居ません。
何故なら、『(正義)という物は、一方向にのみ伸びる直線上にしか存在しない』とは全く思って居ないからです。
真実が、『多方向に向かって自在に伸縮する可能性を秘めた物』でないのであれば、
その世界でわざわざ、天から授かりし『手足や脳』を動かして『喜び』を見いだす事は難しいのではないでしょうか?
ただ、宗教者や哲学者を含む
皆様と同じ様に…
常に、良くないものがあれば 意識の中から排除しようと考えています。
その際に、
それが、常に一方的な主観眼によるものであっては、『有意義な変化』をも拒絶して、ひと処に留まってしまいます。
人は何故、手足を使って動く事ができるかと云うと、恐らくは、
手足を使って動き、経験を積み重ねる事によって学ぶ べきだからでは無いでしょうか?
これも、私と云う一人の人間の『自我=エゴ』から成る、
ひとつの偏見かも知れませんので、
なにも私如き占い師の云う事を信じて、
その通りに動く必要はありません。
私自身は、所謂『天の声』に耳を傾け、
“現時点で私が歩むべき道は、今歩いて居る方向で良いのか?”
と云う疑問を、常に問う事を心掛けて居ます。
無論、僕が対話して居る『天の声』が如何なる属性のものかを知る由も在りません。
当然、この限りでは在りませんが、あなたにも手足や脳がある様に、与えられた自由の中で、
思うがままに、自我を操れると面白いのでは無いかな?
なんていう思いを、今日のメッセージから力を借りて表してみた次第でございます。
今日も皆様方にとって、新しい発見に恵まれた、健康でエキサイティングな一日であります様に☆
相馬 仙命
090-2814-5054