ジュニアゴルファーに帯同
日曜日は「金砂郷CC」に中島孝之プロが自身が主催するアカデミーのジュニアを連れてラウンドに来られた。
【中島孝之プロのアカデミー】
おいらはホームで「総務委員」と「ジュニアサポート部会」の役目を仰せつかっている。
「総務委員」はゴルフ場運営含めた全般的な事への提言が主
その総務委員会の中に「ジュニアサポート部会」がある。
「ジュニアサポート部会」は年に何度か開催する「ジュニア大会」のサポートがメインの仕事だが、責任者として日々来場するジュニアゴルファーとメンバーさん、ゲストさんとがいい関係でゴルフをしていただくための知恵を出し、ホームコースの繁栄に協力したい思いがある。
そう言った担当ですから昨年来のコロナ禍にあって、頻繁にゴルフ場へ足を運び支配人といろいろ相談、打ち合わせをしてきた。
まっ、ゴルフ場まで車で30~40分程度の近いところに住んでいるのもあるし、ついでに練習させていただくのもゴルフ場に赴く理由の一つですけどね。
そんな訳で、この日は「ジュニアサポート部会』のお仕事(おっと仕事ではないね。)
とりあえず目土袋を持って18H帯同した訳です。
これも目土を自らやることでジュニアたちに分かってもらいたい思いです。
中島プロのお嬢さんもジュニアたちとプレーをしていたので写真を撮ろうと思いましたが、ジュニア、女性ですからプライバシーの問題もあると思いここは我慢。(笑)
彼女は地元のゴルフ名門校出身、2年くらい前に一緒にプレーしたことがあります。
ドライバーは当然、おいらより飛びます。
まだ、アマチュア資格を保持して大学に通っています。
さて、前半のハーフは女子にに帯同。
小学4年生の女の子、アプローチがメチャ上手、飛距離が出るようになったらなかなかのレベルになるでしょうね。
中学生の女子の一人はアプローチをカットに打つ傾向、
まっ、この辺はプロからレッスンを受けているのでおいらがとやかく言う筋合いはないのは当然ですね。
後半は男子中学生と、中島プロのお嬢さんとの組、勿論中学男子ですからフルバックから
二人のプレーを見てて羨ましいと思ったのはとにかく”クラブを振っている”です。
これはおいらには真似できないです。
帯同の目的はジュニアたちのプレー、ラウンド中の振る舞いを見ることでしたが、
1.朝、ゴルフ場の受付付近でおいらを見かけるなり『おはようございます、よろしくおねがいします』と元気にあいさつ
2.ラウンド中も特に男子は次のプレーに行くのに走りながら、また目土も精力的にやってくれてました。
「目土」については小学生はいろんな意味でそこまで気が回らないのでは?とも思った。
まっ、ティーショットを打ったら目土袋を持って歩く習慣がついているので徐々にでしょうか?
3.プレイファースト:6番ホールでグリーンのカップの位置はかなり右端に切っていた。
左に外したアプローチがカップの右に切れた、(ティーグランドから見たら手前)
カートはグリーン右奥に停車、
打った彼は、クラブを持ったまま、自分のボールの反対側に行って、ラインを確認、そしてパター以外をグリーン右奥に置いて、自分のボールをマークして拾い上げた。
実に効率的な動きだ。
正にプレイファーストのお手本のような動作、
9番の2打目の時にそのことについて褒めておきました。
また、グリーン上ではピッチマークを積極的に修復していました。
4.同伴の親御さんたち、毎ホール目土袋に一杯砂を入れて子供たちの後ろから精力的に目土をしてくださってました。
また、グリーン周りではかなり離れたところで静観、
また、子供たちのプレーにほとんど口を出さない。
お手本のような親御さんたちでした。
中島プロの指導でしょうか?
しっかりと教育されたジュニアゴルファーたちでした。
「G Factry Golf Academy 」のジュニアたちはすばらしいプレイヤーでした。
帰りの際には、全員整列して支配人に「ありがとうございました。」と元気にあいさつして帰って行きました。
さて、次は個人で来場しているジュニアゴルファーのプレイを見て行こうと思います。
ところで、おいらは18H目土をしながらを持って歩いた。
多分18H、一度もカートに乗らないで歩いたのは何年ぶり?
今朝、足の疲れは全くありませんでした。
明日筋肉痛などが出るようだったら歳だってことだけど・・・(爆)
山口百恵さん、さよならコンサート
昨日、NHKで40年前の「さよならコンサート」を放送していたので2時間半、ずぅーと観ていた。
「森昌子」さん、「桜田淳子」さんと「スター誕生」から出てきた元祖アイドル。
若くして結婚、引退、以後メディアには全く出てこない。
多くの芸能人が一度引退してもどうしても華やかで、ちやほやされる舞台に戻ってくるのに…
今はすでに60才を過ぎていると思いますが、未だに我々の記憶の中に残っているし、メディアに出てくるのを望んでいる人は多いでしょう。
また、ある種彼女の生き方に興味が・・・
このコンサートを行ったときはおいらが30才、マイクをステージにおいてまさにファンの皆さんに、また芸能界に”さよなら”を態度で示したシーン、今でも脳裏に残っている。
まったりとしている土曜日、いいものを観ました。
さて、ぼつぼつホームへ行こう。
今、何を求めているか?
スランプ歴はかれこれ10数年、
レッスンに助けを求めて7年、
プロからのアドバイスはいいスイングを作ればスランプから脱出できると勘違いをつい先日までしていたのに気が付いた。
もちろん、ニュートン力学を信じれば円運動を実現すればインパクト(最下点)で最大エネルギーが出るはずだ。
と、信じてね。
これは大きな勘違い?
目的は違うんだなぁ、
じゃあ目的、目指しているのは何?
”クラブヘッドの芯でボールをヒットすること”
これなんです。
その為にスイングを矯正しているのです。
であるのなら、自分であれこれいじらないことだ、
プロを信じて忠実に!
但し、その通りにできないのも事実だ、
「魔法のホース」や「スイングプロ」というスイング矯正グッズはその補助具、
これをうまく振れるようになることは必要だけど、
あくまでも
”クラブヘッドの芯でボールをヒットすること”
これを忘れてはいけない。
目的を見失ってはいけない。
明日はホームでジュニアゴルファーに帯同予定。
自分の目でジュニアゴルファーのプレーぶりを見届けたいとの思いで。
また、何か参考になることがあるかもしれない。
おいらは18H目土袋を持って歩いてみよう。
そんな訳で、シューズは”ecco”のスパイクレスにしようとベランダで靴磨き。
人事!・・・【第1話】「お前は出が悪い」
その昔、H社にいた頃の話(かなり生々しくてやばいかも?)
10数年前、Livedoor のブログで「リクルーターに告ぐ!本当の○○」と言うタイトルでブログを書き始めたのですが、当時はまだやばいと思って止めた経緯があります。
まぁ、昔のことだし、おいらの目線でしか語っていないので偏りもあると思います。
リクルーターに参考になれば、
さて本題、
【第1話】「お前は出が悪い」
当時の部長は北大卒の超エリート、(エリートの定義はまた後で)
丁度、課長職になれるランクに当時おいらの部下2人が上がっておいらは上がれない。
その部下は一人は東北大、もう一人は忘れたがどこかの国立大学。
その他、部下には同志社卒も更に若いのに東北大卒も居たな。
部長に、どうしておいらは上がれないの?と問いただした。
⇒ まっ、この行為自体がいけないでしょう。
答えは
『お前は出が悪い!』と
致命的な発言です、まだ40才になる前だったと思いますが、今でも脳裏に残っているし、これが後々51才で退職するきっかけの一つだったと思う。
要するにおいらは一生、”出が悪い”という足かせを背負って会社生活を送らなければなりません。
実は、昇格の発表で結果的においらもそのランクになったのです。
部長は、おいらを推薦しなかったが人事(H社の場合は勤労と言う部署でそういうのを統括して総務部と言う)で決めたのでしょうか?
この辺の裏事情は知る由もなく。
その後の昇格は約10年後で当時の部長は部長会でかなりおいらのことを推薦してくださっていたと隣の部署の部長に聞いた。
その時の会話が面白い、
喫煙所で隣の部署の部長から
『ヒ〇キ、明日は二日酔いで来るなよ、朝早いから…』
何のことやら?
『まだ聞いていないのか?、とにかく今日は深酒するなよ』
と
間もなくして、自分の席にいたらおいらの部長が
『ヒ〇キさ~ん、ちょっとぉー』
呼ばれたので部長席に行ったら
『おめでとうございます、○○に昇格しました。明日の朝、7:30分に事業部長室に行ってください。』
『お祝いに一杯行きましょう』
で、駅前の焼き鳥屋に行ったのを覚えています。(笑)
これで課長と処遇は同じ、後は肩書が課長になれるかどうかだ。
ただ、この時は既に49才、後で出てきますが内々に決められていて45才を過ぎたら課長になれないというのを知っていた。
実はこれもおいらが退職してからはなくなり、50才過ぎでも課長になる、いやいや課長にして会社側の人間にした方が何かとコントロールができる?
あるいは肩書きを与えて社員のモチベーションを高めるのかな?
人事もかなり変わったのは事実です。
実はこれって役職とは別で、給与のランクのことであり、その上にも何段階かあり、更に上が役員となる。
ある時期からこれは公表されなくなったし、現在は総合職何級と言うようになったそうです。
確かに給与のランクを公けにするのは当時から疑問に思っていたが、そのランク以上は昔は課長と同様に扱われていた。
従ってボーナスを朝会議室でもらう。
一般の人は夕方の終業前にもらう。
これもなぜそうなるかっていうと、
そのランクになるととてつもなくボーナスが一気に増える、その昔は現金支給だったので袋の厚みが極端に違う、
要するに袋が立つと言うくらいの額になった。
だから一般の人と一緒だと目立つ?
そんな訳で別室でもらう、と言うしきたりがおいらがいるころにはまだ続いていた。
※出が悪い※の定義
おいらは工業高校を卒業してH社に入ったのですが、入社の区分が「ブルーカラー」<要するに現場作業者でした。
高校での就職活動でそんなことは全く分からず、同じく工業高校を出て入社した人で「ホワイトカラー」扱いの人達とあらゆることで区別されていた。
1.寮(ドミトリー)が別
2.同期会なども
その後結婚した時も入れる社宅も別、
まだまだ、戦後の差別(夫言葉に語弊があるかもしれません、職員/工員といった区別)のなごりあった時代です。
地元ではその人がどこの寮、あるいは社宅にいるかで会社の立場が社外の人でもわかるって不思議な町です。
更には、「部課長婦人会」っていうのがあって奥様方も旦那の肩書で序列があったりした。(笑)
実は「ブルーカラー」では将来の役職はここまで、などいろいろと先が見えてきたので、一大決心をして勉強を始めました。
この時、既に結婚をしていて、長男のkenny君が生まれており、サリーちゃんがママのお腹にいた頃です。
残念ながら1年では合格せず、そこに行くのに2年を要しました。
人生の中でこの時ほど勉強したことはありませんでした、
多分、この時大学受験をしたらそこそこのところには行けたと思えたくらい、数学、物理には自信がありました。
入ったところ社内の大学のようなところで「電気工学科」「機械工学科」「材料工学科」があり、80名/期の学生がおりました。(20才~最年長のおいら28才)
これもこの町ではここ出身と言うと”優秀な人”みたいに思われた。
横浜にも同様の学校があり、そちらでは電子工学科、情報工学科、及び、事務系の管理工学科があった。
確かおいらと同期はこちらに200名以上いたと思う。
「トヨタ」には今もあるようですね。TVCMをやっていましたから
H社創立50周年に作られた、某国立大学の分校みたいな存在でと言う思惑があったようですが、学校法などの制約で・・・
15カ月の全寮制、受験資格は高卒で実務経験1年以上、H社グループ全会社からの受験ですから底辺からの競争率は当時で50倍とも100倍とも言われた。
おいらの事業所では受験者が大体50人くらいがいて、事業所選抜試験をクリアしたのは確か8名で全社選抜試験を受けられた。
合格したのは4名だったかな?
そこを卒業するとほぼ学卒とほぼ同等待遇となります。
卒業して帰ってきた4月の昇給ではびっくりするくらい給料が上がりました。
前述の※出が悪い※はおいらがブルーカラーからこの場所にいるってことだと推察しました。
また、その学校を卒業して帰ってきて行った職場が、当時「日本語ワードプロセッサ」(ワープロ)を作ろうと事業所内からエリートをかき集めた「開発部」と言う職場でした。
因みにおいらは「電気工学科」で総勢28名だったか?
ほとんどは卒業後、各事業所に戻り課長になり、数人は部長職にもなりました。
この話は長くなるので10話に分けて つづく・・・




