大木は、何事も無かったかのようにただそこに立っていた。
夜響は、しばしその大木を睨みつけたままでいた。恵美は、傷口を押さえたまま、夜響を見つめている。
不思議と恵美は、冷静であった。たった今、人外の出来事があったというのにである。
恵美本人も、自分の冷静さに驚いていた。
姉の日記を読んで、ここで何かが有ったのはわかっていた。
しかし、普通ならとても信じられるような出来事でない。
木が喋り、自分を襲おうとした者がいる。夜響の言葉をかりるなら、自分を喰らおうとした者がいるのである。
それでも何故か、落ち着いていた。
何故か、自分はもう平凡な日常に帰れない気がしていた。
何故だろう?。恵美は、自問自答していた。
答えは、でない。
不意に、涼しい風が駆け抜けた。
恵美は、夜響から視線を海とは反対側の山へと向けた。
山は、黄金色に染まりだしていた。
恵美は、驚いた。先ほどの出来事は、いったいどれだけの時間を有していたのか。
いつの間にか、数時間の時が過ぎていた。
「ありがとう。もういいよ。」
突然の、夜響の優しげなこえであった。
ハッとして、夜響に視線を戻す恵美であった。
そこには、初めて見る優しい瞳があった。
その夜響が、自分の頬に置かれた恵美の手をそっと自分の手を置いた。
冷たい手であった。
慌てて、恵美は手を引いた。
もう、血は止まっているようであった。
否。傷口が、消えていた。
「傷口が・・・」
恵美は、言葉を飲み込んだ。
先ほどいたエリンの、言葉を思い出していた。
エリンは、夜響の事を、人間じゃないと言っていた。
「あの二人、・・・」
恵美は、言葉が思いつかなかった。
夜響は、少し考えていた。
何となく、気まずい空気が流れた。恵美が、何か言おうとしたとき、夜響が口を開いた。
「さすが、夜雲の血筋だな。」
少し、呆れているかのようであった。
口元が、少し笑っていた。
それを見て、不思議と安堵感がわいてくる恵美であった。
薄暗い、倉庫の中に二人の人影があった。
この場所に似つかわしくない、一対のソファーに向かい合って座っていた。
エリンと、メグであった。
「彼奴、何者なんだろう。」
エリンが、つまらなさそうにつぶやいた。
メグは、腰まである黒髪をいじりながら黙っている。
「私の、手刀かわされたの初めて。」
「私の、蹴りも受けられたわ。」
二人が、お互いを見合った。
「人間じゃないって、言ってたわね。」
「うん。」
メグが、中を見上げた。
何か、遠い昔を思い出しているかのようである。
「彼、どんな臭いがしたの?。」
静かな、メグの声であった。相変わらず、中を見つめている。
「んー・・・。あのね、・・・」
エリンが、少し言葉を濁らせる。
「私と、同じ匂いだったのね。」
「うん。」
メグが、笑った。その表情は、どんな極悪人も背筋を凍らせるかのような笑顔であった。
「夜響。」
メグが、つぶやいた。嬉しそうに。
「彼奴、何者なの?。メグ、知ってるの?。」
「えぇ、知ってるわ。悪魔よ。」
メグが、心底嬉しそうに笑った。
「エリン。箱より面白い物が見つかったみたいよ。」
宙を見据えたままメグは、恍惚の表情を作った。
その瞳は、紅く怪しい光をおびていた。