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ちょっとだけ“秀でた世界”

マニアックでちょっぴりディープな世界をジョジョに奇妙なお届け♪

「秀と母」 第四章 

第91話 心配な夜

 

 長兄と病院を出て一旦は家に帰宅した後、母が言ってくれた通り、みんなで外食することになった。

 

 夜遅くなっても開いているお店は、普段なら行かない坂上のファミリーレストランしかなかった。たどり着くまでの道のりも、坂を上るのも足取りが重い。お店に入ってからも母のことが気になって仕方がない。父や兄たちも口数が少ない。母のことが心配で食欲もなかったが、それでも注文した。

 

 母の状態を見た印象はみんな同じだった。かなり衰弱していて、もう相当厳しい状態だと分かる。主治医のI先生から言われた母の病状を兄たちに話した。母から「検査結果を聞いたら教えてね」と言われたが、伝えていないことも。

 

 さすがに母から二度も「教えてね」と言われたので、明日はどう伝えたらいいのかを話し合う。「正直に話してほしい」と言う母だとしても、今の厳しい状況を伝えて希望をなくしたら、すぐに力尽きてしまうだろう・・・。みんなの意見は一致した。もし母から「結果を聞いた?」と誰が聞かれたとしても「まだ聞いていないよ。きっと大丈夫だよ」と言うことに決めた。

 

 母のことを話しているうちに、注文した料理が出て来た。食べても味がしない。食が進まない。母の姿が頭に浮かんで来る。母が大変な時に、母が食べられない時に外食していることに、なんだか申し訳なくて胸が苦しかった。

――こんな気持ちで食べてもまったく美味しくない・・・。

 食べている時も、父や兄たちと話している時も、とにかく母のことが心配で仕方なかった。

 

 今にして思えば、この時に何の料理を食べたのか?よく覚えていない。それほど母のことが心配だった。

 

 食事を終えても、ファミレスで母の話は続く。呼び出しボタンを床に落としてはいないだろうか?それで呼べずに苦しんではいないだろうか?手に力が入らない状態で、ちゃんとボタンを押せるだろうか?すぐ押せる位置にボタンが置いてあるだろうか?

 次兄が病院に電話をして、看護師さんに確認のお願いをしてくれた。

 

 ファミレスから家に帰ってからも、寝る時も、母のことが心配で仕方なかった。ちゃんと眠れているだろうか?苦しくなっていないだろうか?

 嫌な胸騒ぎがして眠れない。母の顔を見ないと落ち着かない。

 

 とにかく明日の朝一番で母に会いに行こう。

――お母さん、待っててね。

 

 

 

 

 

「秀と母」 第四章 

第90話 最後の言葉

 

 2011年2月3日の夜

 母の言葉がもうほとんど聞き取れなくなっていた。唇が渇いて上手くしゃべれない。笑顔で何かを話そうとする母。しかし言葉が聞き取れない。

「え?お母さん、今なんて言ったの?」

 繰り返し何かを言おうとする母。口の形で言葉を分かろうとしても、口が上手く開かない。母の口に耳を近づけても分からなかった。

「お母さん、何?なんて言ったの?」

 何かを繰り返し言っているが、分からない。「あぁ、伝わらないか」という笑顔で首を振る母。言葉が伝わらないことも仕方がないという表情だった。

 

 父や兄たちに、

「今、お母さん、なんて言った?」

と、聞いても、「分からない」と首を振る。

「お母さん、紙に書いて」

 母は手に力が入らないという仕草をする。しゃべれない、書けない。切なかった。母が言おうとしていることが分からない。これほど切ないことはなかった。それほどまでに、もう体が弱くなっていた。

 

 今にして思えば、「もういいから。いろいろ今までありがとうね」と言いたかったのではないか。そんな気がした。

 

 その後も、母は何かを伝えようとしゃべるが聞き取れなかった。こちらが聞いたことに、うなずいて返事をするぐらいだったが、ようやく一つの言葉だけ聞き取れた。

「みんなせっかくそろったから、ご飯でも食べていけば」

 

 泣きそうになった。この状況でさえも、自分の体のことよりも、僕ら家族を思ってくれた母の優しさ、思いやりに感動してその場で泣きそうになった。しかし、母の前では泣かない約束。涙をこらえた。父も兄たちにも母の言葉が聞こえていた。みんな同じ気持ちで涙をこらえていた。

「うん。ありがとうね。みんなで食べて帰るよ」

 そう言うと、母は嬉しそうな顔になった。

 

 そろそろ面会時間も終わりだ。家事も残して来たこともあり、父と次兄が先に帰った。僕と長兄はもう少しだけ、母のそばにいようと残った。何を話すでもなく、そばにいる。面会終了の時間から三十分ほど過ぎた。そろそろ帰ろう。

「お母さん、そろそろ帰るよ。何かあれば、遠慮しないですぐ看護師さん呼んでね」

 呼び出しボタンを母の枕元に置く。

「お母さん、また明日ね」

 母が手を上げる。「またね」と。そして恒例のスキンシップ。

「お母さん、イエーイ!」

 僕が右手でピースすると、しゃべれないが、右手でピースする母。母の指先に僕の指先を合わせる。

「お母さん、イエーイ!」

 ピースから親指グーに移行して、母の親指と僕の親指をゆっくりと合わせる。

「お母さんに、しつこいハグ~♪」

 いつも恒例のハグ。

 

 ハグしたまま母の顔を見上げると、声にならない声で笑って、僕の背中を優しくポンポンしてくれた。僕は子供の頃に返ったような気持ちになり、嬉しかった。

「じゃあ、お母さん、また明日」

 長兄と部屋を出るふりして、これまた恒例の反対側のカーテンから母の頭越しに顔を出す。

 起きれないが、顔だけこちらを向いて笑顔の母。

「お母さん、またね」

 手を振ると、ゆっくりと手を振り返してくれた母。

 これが母と会う最後となった。

 

 寝る前に母の言葉を思い出し、泣いてしまった。

「みんなせっかくそろったから、ご飯でも食べていけば」

 これが母の最期の言葉となった。

 自分のことよりも家族を大切に想う母の優しさに泣いた。

 

 今でも覚えている。手を振り返してくれた母の優しい笑顔を。

 

 

 

 

 

「秀と母」 第四章 

第89話 気持ちを汲んでくれたこと

 

 2011年2月3日の夕方

 看護師さんが心電図・心拍数、血圧、体温などを測定するベッドサイドモニターを運んで来た。母のベッド右側に設置する。母の左手人差し指の先には、脈拍数や血中酸素飽和度をリアルタイムで観察する医療機器が付けられた。

 

 母の言葉が次第に聞き取りづらく、しゃべれなくなってきた。僕を見て、指先の機器を外してほしいと、目で合図を送って来る。母は健康な時から常に言っていた。

「体中に管をつながれて寝たきりになるのは嫌だよ」

 今まさに、その状況になりつつある。母の気持ちを思えば、外してあげたい。でも、母の命がかかっている。衰弱している体のことを思えば、モニターで観察して体調の変化によって治療してもらうしかない。

「お母さん、分かるよ。でもね、外すと体調のチェックができなくなっちゃうから。我慢してね」

 

 苦笑いする母は首を横に振る。「外して」と。看護師さんに相談してみると、足の親指でも測定できるという。

「お母さん、手の指じゃなくてもいいというから、足に付けてみる?」

 手の指先に付けていた機器を左足の親指の先に付け替えてもらった。

「お母さん、足ならどう?」

 母は首を横に振る。「外してほしい」と。

 

 看護師さんは、やはり「手の指先に付けてもらいたい」と言う。

「お母さん、足だと外れやすいから、やっぱり手の指に付けてほしいって。ごめんね。我慢してね」

 仕方ないといった表情の母。機器を手の指先に戻す。「我慢して」と言う方も辛い。

――できることなら外してあげたい。

 「管でつながれるのは嫌だ」と、言っているのだから外してあげたかった。でも、母の命がかかっている。何かあればすぐ治療してもらうためにも、ここはなんとか我慢してもらいたかった。

 

 今にして思えば、母はもう自分の最後を分かっていた。だから、最後は何もつながれず、解放されたかったのだ。母の気持ちを考えたら、機器を外してあげた方が良かったかもしれない。でも、この時はとにかく少しでも長く生きてほしかった。

 

 僕らの気持ちを汲んで我慢してくれた母。

――お母さん、ごめんね。