「秀と母」 第四章
第102話 母の写真
母の遺影に使う写真を選ぶことになった。ゆっくり探す時間はあったが、どうしても使いたい一枚の写真があった。
2010年5月。文京区千駄木にあるお気に入りのフレンチレストラン「ル・ブォータン」で、母の誕生日を祝う食事会をした。その時に携帯で撮った母の写真。
意外と恥ずかしがり屋の母は、なかなか正面から撮らせてくれない。でもその日は、家族みんなが集まって母もご機嫌だった。
「お母さん、こっち向いて。はい、チーズ!」
ニコッと笑った母の笑顔がとても良い写真になった。
ル・ブォータンは家族みんながお気に入りのお店。きっかけは、2008年。僕と父が谷中へお昼を食べに行こうと歩いていると、千駄木でフレンチレストランのお店を見つけた。看板に書かれた「ル・ブォータン」の文字。
谷中で鰻か何か和食でも食べようかと考え、素通りして歩いていると雨が降ってきた。予定を変更して、近場で食べようと。「どうせなら入ったことのない新しいお店にしよう」ということで、ル・ブォータンに入ってランチを食べたら美味しかった。落ち着いた良い雰囲気、美味しい料理、誠意のある接客でとても良いお店を発見できた。
その後、父が不在の日に、母と兄たちとお昼を食べようと車で街を移動してお店を探した時、満席だったり、駐車場が埋まっていたりと入れるお店がなかなか見つからなかった。そこでル・ブォータンを思い出す。お店の目の前に駐車場もある。
車で行くと、駐車場が丁度空いていた。遅くなったが、ランチを美味しく食べることができて、母も兄たちも大満足。
2009年2月。長兄の誕生日のお祝いにル・ブォータンで食事会。突然、店内にバースデーソングが流れ、ローソクに火がついたケーキが登場。しかも名前入りケーキに長兄が感動した。さりげないサプライズに母も僕らも嬉しい驚き。
長兄が感動したことがとても嬉しかった母は、ル・ブォータンがお気に入りのお店となった。母が料理の支度をせずに済んだのも嬉しい。だって大変だから、作るのも片付けも。
ル・ブォータン店主のシェフとマダムご夫妻の優しさ、美味しい料理と楽しい雰囲気に、僕ら家族みんなが美味しく癒され満たされた。
それから家族の誕生日を祝う時は、ル・ブォータンで食事をするようになった。
今にして思えば、導かれるように行けたル・ブォータンとは、最初からご縁があったように感じる。母が亡くなった知らせをすると、シェフとマダムご夫妻は大きなショックを受けて、その晩は二人で泣いたという。母のために泣いてくれてありがたい。二人そろって葬儀に参列希望の連絡を受けて嬉しかった。心から感謝した。
「お母さん、こっち向いて。はい、チーズ!」
2010年5月に撮った写真は、誕生日ケーキを前に、母が優しい笑顔で正面を向いて写っている。とても嬉しそうな笑顔の写真。僕らは母の笑顔を見ると癒される。この写真を見ると癒される。
この日は母がお気に入りの服を着ていた。猫のマークが左胸についたベージュ色のニットの服。同じベージュの服で犬の肉球マークが左胸にある服もお気に入りだった。こちらの服を購入すると、売り上げの一部が盲導犬に寄付されるというもの。
犬好きの母の優しさを感じさせる可愛らしい服だった。
携帯で、しかもワインを飲んで酔いながら撮った少しピントが合っていない写真。遺影の写真として大きく引き伸ばすと、多少のぶれが気になったが、それでも母らしい良い笑顔で直近の写真となると、この写真しか思い浮かばなかった。
父と兄たちも快く了承してくれたので、思い出の写真が遺影に決まって良かった。
晴れ晴れとした母の笑顔。写真から優しさが伝わってくる。