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ちょっとだけ“秀でた世界”

マニアックでちょっぴりディープな世界をジョジョに奇妙なお届け♪

「秀と母」 第五章(最終章) 

第111話 誕生日

 

 めぐり合わせは偶然か?必然か?たまたまか?

 いつも必然だと思っている。僕の誕生日である3月24日が母の四十九日だった。必然のめぐり合わせを感じずにはいられなかった。

 

 自分の誕生日に母がいない。一年前は想像もしていなかった。とても寂しいが自分で祝いたい。生協でお寿司を買って、コージーコーナーでケーキを買って、父とお酒で乾杯。仏壇にはお寿司と母が大好きだったモンブランケーキをお供えして感謝の合掌。

 

 長兄は2月に、母から最期の「お誕生日おめでとう」を言ってもらえた。

「兄ちゃん、いいな~!」と、その話をすると、長兄が言う。

「俺はお母さんの最後のチャーハンが食べられなかった」

――兄ちゃんだけ、残り物のお惣菜だったからなぁ。って、食べ物かい~(笑)!

 お互いに「いいな~!」と三兄弟で盛り上がる。

 

 子供の頃の誕生日を思い出す。父方の親戚も呼んで、わが家で誕生日会をしてくれた。父が1月、長兄が2月、僕が3月、次兄が4月、母が5月と上半期誕生日家族。

 毎月誕生日のたびに、たくさんの料理を一人で作る母は大変だった。それなのに、幼い頃、母に申し訳ないことを言ってしまった。

「みんなはお金をくれたりプレゼントをくれるのに、お母さんはどうして何もくれないの?」

 すると、母は笑って答える。

「お母さんはお料理をプレゼントするから、それでいいの」

 

 子供ながら、後から反省した。

 母が入院していた時、このプレゼント話を思い出して「あの時、生意気なこと言ってごめんね」と真剣に謝ると、母は明るく笑っていた。

 

 誕生日に作ってくれた母の料理は大好物ばかり。誕生日なのだから、それはそうだろうと言われるかもしれないが、本当に大好きなものばかり。中でも一番の大好物は、母が握ってくれたお寿司。お酢の味加減が絶妙で美味しかった母の味。幼い頃は食わず嫌いで、お寿司は玉子とかんぴょう巻きしか食べられず。

「安上がりでいいね」

 と、母が冗談を言って笑う。

 

 テーブルに並ぶ料理の数々。鶏の唐揚げ、手羽元チューリップ、甘辛味の肉団子、茶碗蒸し、デザートはみかんの缶詰めにフルーツゼリーを乗せてバナナとキュウイも添えたもの。これがまた大好物だった。

 

 食後は近所の美味しい洋菓子店の特製名前入りケーキの登場。年の数だけロウソクに火をつけ「ハッピーバースデートゥーユー」を家族みんなで歌ってくれた。嬉しい思いでローソクの火を消す。

 家族みんなで食べる楽しさ、嬉しさ、喜びがあった。

 

 何よりも、母が愛情を込めて頑張って作ってくれた料理が最高に美味しかった。

「お母さん、美味しかったよ~!お腹いっぱい!」

「良かったね」

 母の嬉しそうな笑顔。本当に美味しい料理を作ってくれて嬉しかった。

――もう一度、お母さんの料理を食べたかったなぁ。

 

 僕は大病になったことがないという話から、母に感謝の気持ちを伝えたことを覚えている。

「お母さん、健康な体に生んでくれてありがとうね」

 当時、なぜか急にその言葉を言っておきたくなり、照れたが素直に言えた。母は照れ笑いして何も言わなかったが、「嬉しい」という笑顔だった。

 今思い出しても、母に感謝の気持ちを伝えることができて本当に良かった。

 

 おもちゃコレクターの北原照久さんと出会ってから、素晴らしいお言葉を聞いた。

「自分の誕生日はお母さんに花束を贈りましょう。お母さんが亡くなられている人は誕生日にお墓参りをしましょう。喜びますよ」

 

 今では毎年、自分の誕生日に母のお墓参りへ。心から感謝の気持ちを込めて。

 

 

 

 

 

「秀と母」 第五章(最終章) 

第110話 見守ってくれている

 

 2011年3月11日

 経験したことのない大きな揺れがどんどんと大きくなって、アルバイト先のビルを大きく揺らした。初めてと言っていい恐怖の体験。机の下に入って身を守っていたが不安で怖い思いをした。

 

 東日本大震災が起きた。テレビでは大津波の映像が流れていた。

――これほどの大震災とは・・・。

 テレビで流れる東北の大惨事に愕然とした。

 

 電車が止まっているので家まで歩いて帰る。会社の外に出てすぐ携帯で家にかけるがつながらない。道中、たくさんの会社員の人たちが歩いて帰っていた。バスを見かけたが、混んでぎゅうぎゅう詰めの上、のろのろ運転。歩いた方が早かった。

 

 会社から家まで歩いて約一時間。その間に携帯で家にかけるがつながらない。父や兄たちの携帯に電話してもつながらない。メールを送っても返信が来ない。でも、なぜか家族はみんな無事だと感じていた。

 一番心配だったのは家の仏壇。母の位牌や遺影が、地震で倒れて壊れていないだろうか?と不安になり、気になって急いで歩く。

 

 家に着くと、玄関に入ってすぐに仏壇を確認する。特に何も倒れていなくて安心した。出先から同じく歩いて帰宅していた父に聞くと、位牌が倒れていただけで他は大丈夫だったという。父も仏壇のことが心配で仕方なかったのだ。

 

 夕方には次兄も会社から歩いて帰宅した。同じく次兄も仏壇のことを心配していた。これでみんな一安心。心配してくれた静岡の親戚たちからのメールも、届いたのは数時間遅れだった。心配してくれてありがたい。

 

 もし、母がまだ入院していたら?と考えると、大地震の大きな揺れに怖い思いをしたのではないかと心配になっていただろう。もし、母が津波に襲われた街の病院に入院していたら?と思うと、想像するだけで不安になり悲しくなってくる。

 

 報道で被災地の深刻な状況を知り、被災者の方々は大変な思いをされていることだろうと心を痛めた。わが家と同じように母を亡くされた人、愛する家族を失った人たちの悲しみを察し、心からご冥福を祈った。

 

 母を亡くしてから約一か月後に起きた東日本大震災。母がいない寂しさと地震による怖さと不安が重なり、心細い気持ちになった。

 

 震災が起きてから、近所のスーパーやコンビニでは、特にお米やパン、カップ麺など食品の品切れ状態が続いていた。テレビや新聞でも報道されていた出来事が現実に目の前で起きていた。

 

 東京都内でも流通が滞り、食品が届かず、品薄のため食料確保に買い占めする人が絶えないという。震災で一番被害が大きい東北の被災地では、食料不足で大変な思いをされているというのに、東京に住む人間が自分さえよければと食料を買い占めてしまう現状が情けなく残念だった。

 東京都北区の端っこにある小さなわが町でさえも、それは例外ではなかった。

 

 近所の生協では、お米はすぐ売り切れ。食パンもカップ麺も品切れ。食べ物ならなんでもいいと、普段買わないような菓子パンでさえも、みんなが手に取ってすぐ品切れになる。

 特にお米が入荷するとすぐに売り切れてしまう。次回の入荷日をチェックしてその日に買いに行くが、平日の会社帰りに行っても当然のごとく売り切れていた。

 重いお米を高齢の父に買いに行ってもらうわけにもいかず、バイトを休んでお米の入荷日に生協へ行った。

 

 開店前の生協の入り口前に行列ができていた。こんな状況は見たことがない。その行列に並んで開店を待つ。開店と同時にお米売り場に殺到する人たち。

 目の前でお米を取り合う光景を見て、なんだか嫌な気分になってしまった。それでも余れば、どんな種類のお米でも買おうと思っていたが、次から次へと割り込んでまでお米を取りに来る人の群れ。

 

 お米売り場に店員が誰もいないので、早いもの勝ちを止められない。誰かれ構わず押してぶつかって割り込んでくる。近くにいた主婦が「痛い!」と叫んだ。

 この状況に腹が立って、

「危ないから押したりするのはやめましょうよ!」

 声に出して注意をしても誰も聞かない。あっという間にお米が持ち去られていく。

 

 わが家のお米の在庫も無くなり、できることなら買いたかったが、目の前の人垣でお米が取れない。人間の浅ましい一面を見て、嫌気がさした。

――お米が食べられなくても、他にも食べ物はあるし。そこまでして買わなくてもいいや。

 帰ろうとした時、目の前にいた見ず知らずの主婦が振り返り、手に持っていたお米二袋の内の一袋を、差し出してくれた。

「はい、これ!早く持って!」

 とっさに受け取って、

「ありがとうございます!」

 

 こんな状況でも「こういう優しい人がいるんだ」と感動した。

 きっと母が助けてくれたのだと思い、感謝した。それにしても、このお米の買い占めの状況は酷い。自分さえよければいいというのは、やっぱり良くない。

――並ばせるとか一人一袋にするとか、整理券でも配ればいいのに!

 帰りがけ、生協の店員に忠告した。

「お米売り場はそのうちケガ人が出ますよ。並ばせて買うとか、何かした方がいいですよ」

 その忠告した甲斐あってかどうかは分からないが、生協は次回から整理券を配り、一人一袋のみの購入となった。

――最初からそうすれば良かったのに!

 何はともあれ、お米騒動も一旦は落ち着いて良かった。

 

 ありがたいことに、その後は長兄の友達からお米を送って頂けたり、静岡の母の実家からお米を送ってもらえて助かった。ちなみに、長兄は群馬から豪華な冷凍ハンバーグを送ってくれて嬉しかった。

 

 皆さんの優しさに感動して心から感謝した。食べ物に困っているだろうと、きっと母が助けてくれたのだ。

 

 仏前で手を合わせる。

「お母さん、助けてくれてありがとうね」

 

 母が見守ってくれている。心から感謝した。

 

 

 

 

 

「秀と母」 第五章(最終章) 

第109話 再出発

 

 母が亡くなってから約二週間後、仕事に復帰した。アルバイトでも出張がある。

 

 お通夜に出席してもらえた上司のKさんが、この二週間休んでいる間、とても心配してくださった。そして復帰最初の仕事は、会社内ではなくて出張に連れて行ってもらえた。島根県隠岐郡の海士町あまちょう。鳥取県の港からフェリーで片道三時間半ほどかかるという小さな島へ。

 

 2011年2月22日

 まだ明け方の空が暗い冬の早朝。浜松町からモノレールに乗り、真っ暗い窓の外の景色を眺めながら羽田空港へ向かう。寂しい気持ちのまま、米子空港へ向けて飛行機に乗った。

 

 ようやく日が昇り始め、機内から朝焼けの景色を眺めていると、雲海から頭を出した富士山を見た。富士山を上空から眺めることは初めて。朝の日差しに照らされた富士山の雄大な景色に感動して涙が出た。

 

 母が大好きだった富士山。谷中の富士見坂から遠目に富士山が見れた時は家に電話して「お母さん、今日は富士山が見えるよ!」と報告したことを思い出す。

「それは良かったね」

 母のその言葉が聞きたくて、よく電話をした。

 

 出張へ向かう上空から眺めた富士山の美しさ。

 この朝、富士山を見られたことは、母からのプレゼントのように感じた。まるで、「富士山を見て元気出してね」と励まされているように。母を想い、涙がこぼれた。

 

 海士町で海と自然に触れ、気持ちも少しだけ前向きになれた気がした。気分転換にと出張へ連れて行ってくださった上司Kさんのお心遣い、優しさに心から感謝した。

 

 空から見守ってくれている母に恥じない生き方をしないといけない。

 最後の最後まで頑張った母の姿を胸に刻んで、強く生きないといけない。母がいなくなって、まだまだ寂しくはあるけれど、何事もできる限り頑張って行こう。

――さあ、再出発だ!

 

 また歩き出そう。