こんにちは!ひでちぇろです。

 

今回は「引き寄せの法則」と、

「仏教の教え」との協調について考えていきます。

 

 

引き寄せの法則

まず、引き寄せの法則。

 

ポジティブな考えや感情を持つことで、

ポジティブな出来事や人々を引き寄せることができると言われている法則です。

 

仏教の基本的な考え方

これに対し、

仏教の基本的な考え方を紹介します。

理解しやすい代表的な教えとして、「四諦」、「自灯明、法灯明」、「中道」があります。

 

四諦

四諦とは、

  1. 苦諦(くたい): 生きることは苦である。

  2. 集諦(じったい): 苦の原因は煩悩である。

  3. 滅諦(めったい): 煩悩を消すことで苦を滅することができる。

  4. 道諦(どうたい): 煩悩をなくすためには八正道を実践する(行動、心、言葉を正しくする)。

の4段階の事を示します。

 

言い換えると、

現状が辛いのは煩悩に執着しているからであり、

そのことに気付き、

煩悩を正しくコントロールして生きれば幸せになれるよ、

という教えです。

 

自灯明、法灯明

次に、「自灯明、法灯明」です。

ここでの法とは真理のことを示します。

 

「自らを指針にして、真理に従って生きよう」という考え方です。

そして、真理とは以下の三法印の事を言います。

  • 諸行無常: 物事は常に変化する。絶対はない。

  • 諸法無我: すべての事象は繋がり合って存在している。

  • 涅槃寂静: 煩悩では満たされないことを理解すれば安らぎの境地に行ける。

 

四諦と似ていますが、

すべての事象は繋がり合い、変化しているのでことを知ることで、

物事への執着に意味がないことを説いています。

 

中道とニューソート

一見すると、

仏教の教えは「欲望を持つこと」を否定しているように思えます。

しかし、実はそれだけではありません。

 

さとりを開く直前、

ブッダは苦行林で命がけの修行をしていました。

しかし、悟りを開いたブッダは、

極端な苦行が正しい道ではないと気づきました。

 

そして、苦行にも快楽にもよらない道として、

「中道」が重要であることを説いています。

 

「中道」は真ん中という意味では王道でもあり、

物事を正しく認識して、

安易に両極端に片寄るなということです。

 

これに対し、

ニューソートの創始者たちもまた

原理主義的なキリスト教プロテスタントが

禁欲主義に偏りすぎることに抵抗し、

個人の幸福を追求することの重要性を説きました。

 

個人の幸福追及も認める方向への修正

という意味でやはり「中道」です。

 

仏教は欲望を否定し、

ニューソートは欲望を肯定して、

一見正反対ですが、

既存宗教の行き過ぎたバランスを調整する

「中道」という立ち位置は

一致しているかもしれない

と感じています。

 

仏像や経典は加速装置

ここで後世のひとが作った

仏像(=仏教芸術)や経典について考えてみます。

 

仏像は、は悟りを開いたブッダを想像、

つまりイメージングするのに最適です。

 

また、無心に唱える経典も、

アファメーション相当することが分かります。

 

これらは、

悟りに至る為の加速装置としての、

イメージングであり、アファメーションです。

 

なにか、引き寄せの法則を彷彿とさせるなと、

ずっと感じていました。

 

引き寄せの法則の目標地点

引き寄せの法則は、仏教の中で見てみると、

仏像や経典の様な、悟りに至る加速装置としての

ツールに相当すると思われます。

 

しかし、至る先が悟りなら良いのですが、

もし仏教の考え方を受け入れるなら、

煩悩を実現する為に引き寄せの法則を使おうとするなら、

煩悩(=苦しみ)にまっしぐらで、

不幸になる為の加速装置となってしまいます。

 

引き寄せの最終目標地点が、

個人の煩悩によるものなのか、

もしくは悟りまで行かなくとも利他的なものが加わっているかどうかが、

重要なのかもしれないなと思われます。

 

目標を立てるのも、

引き寄せの法則を使うのも、

すべて自己責任なので、

私個人としては、

不幸まっしぐらとならない妥当が目標作りについて、

真剣に考えるべきだと考えています。

 

そのためには、

仏教だけでなく、

他の思想についても考えてみるべきと思っています。

 

それでは。