ようこそ、ひでちぇろブログへ!
今回は、
作曲家のグスタフ・マーラーについて
ユングとフロイトのことも交えながら、
書いていきます。
話が少々マニアックで、
飛躍気味になるかもしれませんが、
ご容赦下さい。
いきなり人生の最後からですが
マーラーは、51歳で亡くなりました。
今の私とちょうど同い年です。
そういう年齢でこの文章を書いているのも、
何かの縁を感じます。
で、
マーラーが死を強く意識して書いたのが、
交響曲第9番です。
副題に「死」とつけてもいいくらいです。
ベートーベン、ブルックナー、ドヴォルザーク、
シューベルト(旧番号)等、
多くの有名な作曲家が9番を書いた後に亡くなったことから、
マーラー本人も意識していた9番のジンクスというのもあり、
「死」に因縁付けられた曲です。
世の中の評価では「死について」書かれた曲ですが、
死にたくない、「生きたい」という感じもします。
そして9番の後、
10番の作曲に取り掛かります。
その10番のテーマですが、
「死」と「性」が共に大きなテーマです。
この頃、妻アルマの前に、
年の離れた夫に比べて魅力的な男性である、
グロビウスという人が現れます。
マーラーは、自分とグロビウスの好きな方を選べと言い、
結局アルマはマーラーの元に残ったのですが、
この後、
アルマを失う、または精神面では失った、
という恐怖や喪失感を味わいます。
特定の異「性」に対する強い感情があったわけです。
実際、
草稿の楽譜のあちこちにアルマの名前を書き込んでいます。
この時期には心臓病の診断も下されていて、
「死」もリアルに目の前にある状態でした。
という、
本当に追い詰められた状態にあったので、
「狂気」についても表現されています。
1楽章と5楽章で現れる、最大音響での不協和音がまさにそれです。
ということで
9番、10番では、
「性」、「死」、(生、狂気)
という、
否定されがちな、
ネガティブな感情がテーマとなっています。
ただ、たとえば「性」について少し考えると、
「性」→種の保存→生命の創造→神の領域→「聖」
と、少し乱暴ながら、
「聖」なるものに繋がります。
また、「性」の次に、
「死」ですが、
ちょっと異質ながら、インドの神を登場させてみます。
創造の神(Generator)、ブラフマー
維持の神(Operator)、ヴィシュヌ
破壊の神(Destroyer)、シヴァ
と3つの神
(頭文字を取ってGODという説も)
の中の、
破壊の神の領分が「死」とです。
この3つの神は、
長い目で見て、
人類を成長させるために
必要な3要素なのかもしれません。
マーラーは、
この3要素のこの中でも、
抑圧されやすい、
「性」=「創造」、
「死」=「破壊の神」
をテーマとし、
私たちの中にある、
嘘偽りのない欲求であり、
抑圧されやすいが人類を成長させるための神の要素でもある、
「性」と「死」について
ストレートに表現してくれたのだと感じます。
ここで同時代の心理学者の話を書きます。
まず、
同じユダヤ人で、
マーラーを診断したこともある、
フロイトです。
彼の理論を少々乱暴ながら要約すると、
心の病は、すべて性欲を抑圧したせいだ、
というものです。
「性」を根源的な生(「死」の裏返し)の動機として位置付けています。
一方、一時期フロイトの弟子だったユングは、
すべてを「性」だけに還元するのはおかしい。
成長しようという欲求とか、
人類共通の 宗教的な聖なるもの、
彼岸のものを求めることこそ根源的なものと考えました。
ここで、マーラーの音楽とユングの理論を見比べてみると、
個性的なキャラクターの様な音楽→元型(アーキタイプ)
命がけの成長ストーリー→個性化、自己
包まれるような緩徐楽章→グレイトマザー
という感じで、
ユング心理学のキーワードが良く合います。
しかし、譜面の書き込み等、
入り口が「性」と「死」なところは、
フロイトを連想させます。
結果として、
作曲のスタートが「性」と「死」で、
アウトプットの音楽は「聖」となっています。
つまり、マーラーを通して
「性」、「死」、「聖」
は皆、一直線上にあったんたということが解ります。
フロイトの理論もユングの理論も、
マーラーの交響曲から見れば、
人生で起きている同じ一つのことだったと言えます。
マーラーは、
人生をかけて、
自分の中にある目を背けがちな欲望を
音楽としてアウトプットしてくれたのです。
そして、聖なるものにつながったんだと思います。
自分も
音楽を通じて、
人生を通じて、
自分の中にあるものから目を背けず、
聖なるものに繋がる旅をしたいです。
それでは。
