絶対的な愛は、「博愛」とは違います。(「博愛」の意味は、平等に愛する)
「仁愛」とも違います(「仁愛」の意味はいつくしむ、人を思いやる)
また、「慈愛」とも、「愛情」とも、「許し」とも違いますし、「自分を愛する」、「自分を好きになる」、「みんなを愛する」ということでもありません。
それらはすべて「する」という、行為であり、対象や状況や環境によって、比較によってそれをするので相対的な愛です。
※ だからといってそれが悪いというのではありません。
「絶対的な愛」は「それだけ」、のため(比較することが出来ない)そうする以外にどうしようもない。そういう愛です。
一つの心(いわゆる創造主)や、その一部であるそれぞれの心は、何をせずとも、あるいは何かをしようとしても、そう在ること以外には在りえません。
なぜ心がそれなのかといえば、創造(生む)するからです。(創造は絶対的な愛の表現です)
心は身体を使ってそれを表現するため(創造するため)、そうして「自分が絶対的な愛だ」と気づくため(詳しくは、なぜ、それぞれの心はあの世を離れ、この世に来たのか。を参照ください)、この世に在ります。
しかし、ときとに身体がその邪魔をします。身体の特徴が、相対的な愛が(自己中心的な愛が)それを邪魔します。
だから、心が身体をコントロールしなければなりません。「今」にあること。そうすればそれが出来ます。
そうしてそれを表現すれば万事上手く行きます。
みんながそれを表現すれば世界が万事良好です。
それを私は、みんなは表現することが(絶対的な愛やそれにもとづく個性(性格や能力)を表現することが)出来ているだろうか?
そう思った方は
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
多くの方に読んでいただきたいと思っています。
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