神はどう生きるか ~こころとからだ、人生の目的、スピリチュアルについて~

神はどう生きるか ~こころとからだ、人生の目的、スピリチュアルについて~

タイトルの神(しん)は東洋医学(思想)でいうこころのこと。こころとからだ、人生の目的、それらについて私が得たスピリチュアルな気づきをもとに書いています。

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「一つの心が「絶対的な愛であると気づく」には、絶対的な一つの心だけでは出来ません。そこで、一つの心は「それぞれの心」を、「この世」を表現しました」と前回書きました。

 

たとえ、気づいていないことがどんなことかわかっていたとしても(理屈ではわかっていたとしても)、気づく(そうであると確信を得る)のは簡単なことではありません。

それまで見えていなかったところを見る、のですから、そうなるためのきっかけ(経験)が必要になります。

 

「気づき」、は経験(思う(原因)から結果に至る過程)によって得られます。

 

しかし、経験は、自以外に他(自、以外の何か)がなくてはならず、ほかにも時間や空間がなくてはなりません。(時間や距離が過程を生じるからです)

 

一つの心は絶対的なので(それだけ。他がなく比べるものが何もない)、自らが何であるかわかっていても、それがどういうことなのか気づいていません(気づけません)。

 

※暖かさは、寒さを知らなければ理解出来ません。もし、寒さ、というものがなく(その概念がなく)暖かさだけであるなら(陰と陽、相対的なこの世ではあり得ないことですが)、暖かさ、はわかるけれど、それが何なのか、どういうことなのかは理解出来ません。

 

※「自」だけで、「他」がなければ(「自」は「他」がなければ成立しないのですが、便宜的にそうします)「自」は「自」が在ることはわかっていても、「自」が何なのかはわかりません(比較する「他」がないので気づけません)。

 

また、あの世は時間や空間がない、「思い通りの世」であり、何かを思えばそれと差がなくそうなるため、思いから結果、という順序はなく、それらに差はありません。以下のように。

 

この世:思い(原因)→過程→結果 

あの世:思い(結果)=結果(思い) 

※実際、あの世は「思い」、「結果」という概念はありません。その区別,、その差がないからです。

 

そうしたことから、あの世は「過程」というものがないので、それによる経験もありません。そのため、経験によってしか得ることが出来ない気づきを得ることが出来ません。

 

 一つの心は、「絶対的な愛」だと知っています。ですが気づいていません。

 

そのため、一つの心はそれが持つ永遠の(限りのない)個性(性格や能力など)を「それぞれの心」として表現し、さらに、様々な決まり事によって成り立つ(相対的で変化する、時間と空間によって支配されている)、思い(原因)→過程→結果という順序のもと「経験」をすることが出来る、それによる気づきを得ることが出来る「この世」を表現しました。

 

※以前、この世は様々な決まり事によって成り立つ「決まり事の世」です、と書きましたが、この世はよく出来た「気づきの世」でもあるのです。

 

一つの心と同じく、それぞれの心も「自分は絶対的な愛」だと知ってはいますが気づいてはいません。

 

しかし、この世で「経験」をすればそれに少しずつ気づき(それに完全に気づくには時間が掛かります。近々詳しく書きます)、その分だけ一つの心もそれに気づきます(それが一つの心の絶対的進化です)。

 

しかし、それぞれの心はただやみくもに「経験」をすればよいわけではありません。

 

それぞれの心が、自分は絶対的な愛だ、と気づくには、この世で心を(自分を)表現する必要があります。

 

それぞれの心はその経験によって、自分は絶対的な愛だ、ということに対するわずかな気づきを得ることが出来ます。従ってそれを繰り返していればやがて、自分は絶対的な愛だ、と完全に気づくことが出来ます。

 

続きます。

 

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それは、「絶対的な愛であると気づくため」です。

 

そもそも、一つの心は(もし、何もしなければ)自らが絶対的な愛であると気づくことは出来ません。(絶対的であるため、相対するものが何もないからです)。

 

※一つの心は自らを、「自ら」、「自分」とは思っていません(思えません)。その理由はやはり相対するものが何もないからであり、自と対になる(お互いを認識する)他が存在しないからです。

 

でも、一つの心は自らが(便宜的にこの言葉を使います)絶対的な愛であるとは知っています。なぜ知っているかといえば、それは創造しているからです。

 

※以前書いたように創造とは表現であり、それは絶対的な愛のもとに行われます(絶対的な愛がなければ創造は出来ません。また、あの世は時間がないので、創造をして何かを生む、と表現するのは正しくありません。(創造→生む)

創造は始まりも終わりもなく生もなければ死もありません。つまりそれらは区別なく、差がなくそうなるからです。(創造=生む))

 

知っているの、でも気づいていない。それはどういうことか。

 

気づくとは、それまで知らなかったことを知る、ということですが、ここでいう気づくとは、そうして確信を得る、ということ。

 

すなわち、絶対的な愛であることに対して、何があっても、どうあっても、そうだと、それに間違いない、それしかない、と知る、ということです(もう少し話が進んでから、これについて詳しく書きます)。

 

あれ?

でも、あの世は「思い通りの世」だから、それに「気づこう」と思えばそれに気づけるのではないか? そう思った方がいるかも知れません。

 

ところが、あの世でそう思ったなら、その通り、「気づこうと思っている」状態になります。

 

そうしたら、それに「気づいた」と思えば?

 

ところが、あの世でそう思ったなら、その通り、気づいていないのに「気づいた」状態になります。

 

そもそも一つの心がなぜ、それに気づこうとしているのかといえば、一つの心が絶対的進化をするためです。

 

絶対的進化とは、退化することもある時間の経過に伴う進化ではありません、永遠(先も後もない、天井も床もない)進化です。

 

一つの心はそのために在ります。(「在る」は「ない」のもとにある言葉なのでこの表現は正確ではありません。一つの心は、絶対的、永遠、なので「在る」も「ない」もありません)

 

一つの心が「絶対的な愛であると気づく」には、絶対的な一つの心だけでは出来ません(繰り返しになりますが、絶対的だからです)。そこで、一つの心は「それぞれの心」を、それから「この世」を表現しました。

 

続きます。

 

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世界のすべては(この世は)相対的であるという決まり事によって支配されています。

 

前回書いたことをまとめると以下のようになります。

 

* 世界のすべては陰と陽という相対する二つの性質を持っている。

 

* 世界(この世)に絶対的なものはなく、すべては変化する。

(時間と空間がそうさせます。ときに陰が陽に、陽が陰になる)

 

この世に絶対的なものはない・・・・・?

 

そう疑問に思った方がいるのではないでしょうか。

「ない」と言い切っているのだから、それは「絶対的」ではないか?

「絶対的」なものは世界(この世)にあるではないか、と。

 

その通り。これだと世界に「絶対的」があることになります。

 

ですが、やはり世界に「絶対的」はありません。

 

一般にいう「絶対的」とは、それだけ、それと比較するもの、相対するものがない、という意味がありますが、それは「ない」と「ある」を含みます。すなわち陰と陽、両方の性質を持っています。

 

しかし、ここでいう「絶対的」(本来の意味での「絶対的」)は、始まりも終わりもなく、永遠(生まれたこともなければ消滅することもない)であるため陰陽はありません。すなわち、世界(この世)にその概念はなく、それは存在しません(世界(この世)は相対的な陰と陽を持つものしか存在出来ないため)。

 

・・・・・本来の意味での「絶対的」をこの世の言葉で説明するのは難しいです。

 

なぜなら、世界のすべてが(この世は)相対的という決まり事によって支配されているため、それを説明する言葉(概念)がないからです。

 

それならば、それを理解するにはどうしたら良いのか。

 

それは、感じる、しかありません。感じる、ことでそれは理解することが出来ます。(感じるのは心です。いずれ詳しく書きます)。

 

言葉にするのは難しいのですが、これまで多くの人が感じたそれを、(本来の意味での「絶対的」を)、様々な言葉で表現しています。

 

太極、道、空、あるようでないないようである、今、などがそうです。これらの言葉は、本来の意味での絶対的、を感じた人がその人なりの言葉でそれを表現したものです。

 

※上記の言葉に対する学説はいろいろあり、そういった学説と私の書いていることは違う、と異論のある方がいるかも知れません。

でも、それを感じれば、それらの言葉がすべて同じことを言っていると理解出来るはずです。

 

※このブログで私が書いている「一つの心」、古くからいわれている創造神、根源、あの世なども、それを含む表現です。

 

それぞれの心はあの世を離れ、この世にやって来ます。

 

次回にその理由を書きたいと思います。

 

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あの世が「思い通りの世」であるのに対して、この世は様々な決まり事によって成り立つ「決まり事の世」です。

 

どのような決まり事があるかというと、その一つが、「相対的である」ということです。

 

ここでいう相対的とは、影と光、無と有、上と下、というように、あるものが存在するために(あるものが認識されるために)、それととともにそれとは別のあるものが存在するということです。

 

それらのこと(すなわちこの世、世界のこと)は東洋思想(古代中国の思想)である気の思想(陰陽思想)で簡単に理解することが出来ます。

 

東洋思想は生物、鉱物、音、思考、空気、水など、世界のすべて、どんなものでもそれをそれとして構成、維持し機能させるものを「気」としました。

 

※気があるとかないとかの話ではないです。気の思想(陰陽思想)は、この世(世界)を理解するための道具、すなわち考え方です。

 

続けます。その気は陰と陽という相対する性質を持ちます。

 

<陰に属するもの>

裏、無、暗、下、静、夜、寒、死、ん、結果、時間、過去など、内的なものや終わりに関するもの。

 

<陽に属するもの>

表、有、明、上、動、朝、暖、生、あ、原因、空間、未来など、外的なものやはじまりに関するもの。

 

気は陰と陽という、相対する性質を持つので、世界には(この世には)陰だけ、あるいは陽だけ、というようにどちらかだけのものはありません(存在出来ません)。(※世界のどんなものも上記のように陰か陽に分類することが出来ますが、そのどれもが表現されていない反対の(それとは別の)性質を持ち、それが表現されているものの存在を可能にしているということです)

 

たとえば、世界のどんなものにも裏があれば表があり表があれば裏があります。裏だけのもの、表だけのものはありません。

 

有は無によって、無は有によって存在します。

善は悪のもとに認識され悪は善のもとに認識されます。

寒さは暖かさを、暖かさは寒さを知ることで理解することが出来ます。

私は誰かによって私となり、誰かは私によって誰かになります。

 

他にも暗と明、夜と朝、静と動、下と上、遅と速など、世界のすべては相対する反対の性質と一つになって存在しています(あるいは存在することが出来ます)。

 

また、その関係は相対的であるため絶対的ではありません。すなわち、それらの関係は場合によって、時間によって、条件によって変化します。

 

たとえば、裏は表になり表は裏になり、下はそれより下と比べれば上になり、上はそれより上と比べれば下になり、暗はそれ以上の暗によって明となり、明はそれ以上の明によって暗となり、朝が来て夜が来てまた朝が来て、季節は廻り、すべてのものは生まれ、やがて消滅し、私は誰かであって、誰かは私である、というように。

 

続きます。

 

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それは一般に言うあの世です。

 

あの世とは、一つの心そのもの。その思いがそのまま表現されています。

すなわち、絶対的な愛です。そして絶対的であるため、一定不変、時間や空間がありません(心に形態がないのと同じように)。

 

あの世は時間がないので、始まりや終わりはなく、永遠であり(一つの心は、あの世は、生まれたこともなければ消滅することもありません)今しかありません。また距離がないので「あそこ」、「向こう」といった場所もありません。

 

一つの心の表現、一部であるそれぞれの心もまた本来あの世に在りますが、それぞれの心は、同じような思いごとに在ります。

 

喩えるならば、一つの心、あの世の中に、同じような思いの心が集まり街や村を形成している、ということです。(でもあの世に場所はないので実際は少し違います。いずれ詳しく書きます)

 

あの世では心の思いがそのまま表現され、思いの通りになります。あの世は時間と空間がありませんから、「思い」と、「その通り」に差がなくそうなります。

 

たとえば、どこかへ行きたい(あの世に場所はありませんから「どこか」もありません。しかし、心がそう思えばその通りになります)と思ったなら、それと差がなくその通り、どこかに着きます。

 

そのように、原因から結果に至る過程がありません、というか原因→結果ではなく、そのどちらも差がなく起きるため、それらの言葉、概念があの世にはありません。

 

そんなわけで、あの世は「思い通りの世」です。そこに一つの心、それぞれの心が在ります。

 

一つの心はあの世に在り、それぞれの心はこの世を生きるため、この世にやって来ますが、その理由を書く前に、この世について書きたいと思います。

 

次回に続きます。

 

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