絶対的な愛やそれにもとづく個性の表現に気づく(2) | こころとからだとスピリチュアルな話

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私が得たスピリチュアルな気づきをもとに、心と身体、人生の目的などについて書いています。

前回の続きです。

 

心が絶対的な愛を表現したり、それにもとづく個性を表現すると、心に絶対的な愛にもとづく情動が生じます(感情が動きます)。

 

すると、それは頭に伝わり、頭がその情動を翻訳します(幸せ、喜び、気分が良いなど、それは心がどうそれを感じたか、情動の違いによって違います)。それを「私(自分)」は自覚します。

 

そうして、その心は自分がそれであると(自分が絶対的な愛であると)その分だけ気づきます。(絶対的な愛の反応です)

 

     ※心がこの世に在る目的は、「自分は絶対的な愛だ」と気づくためです。(詳しくはなぜ、それぞれの心はあの世を離れ、この世に来たのか。を参照ください)

 

 そもそも、すべての心は通じています。(詳しくはそれぞれの心は通じている。を参照ください)そのため、心が絶対的な愛やそれにもとづく個性を表現すれば、どの心もそれに気づきます。

 

しかし、以下のような場合、心に生じた情動は頭で翻訳された途端、頭がそれをすぐに打ち消してしまうため、絶対的な愛の反応が起きません絶対的な愛の反応については絶対的な愛やそれにもとづく個性の表現に気づくを参照ください)。そのため、「自分が絶対的な愛だ」とは気づけません。

 

 * 身体のまま生きている時間が長い

(心が身体をコントロールすることが出来ていない)

    

    身体(頭)は相対的な愛(自分中心の愛)に関すること以外には興味がないので(身体については身体のまま生きるとどうなるか。を参照ください)他の人が(心が身体を使って)絶対的な愛やそれにもとづく個性を表現したことを目に耳に、あるいは触れたとしても、大抵の場合それを否定したり無視したりします。

 

心が身体をコントロールすることが出来ていない(「私(自分)」が「今」にない)と、(身体(頭)が、相対的な愛が勝っている)そうなります。

(心が身体をコントロールすることについては「今」にあれば心は絶対的な愛を表現し、その個性を表現する。(2)を参照ください)

 

 しかし、心が身体をコントロールすることが出来ていれば(「私(自分)」が「今」にあれば)、心はそうした身体(頭)否定や無視を心の絶対的な愛によって消し去ってしまうので、絶対的な愛の反応が生じ、その分だけ、「自分は絶対的な愛だ」と気づきます

 

  具体的には、 

 

ある人のダンスを見たとします。

そうしてそのダンスから、絶対的な愛にもとづく個性に心に絶対的な愛にもとづく情動が生じます(感情が動きます)。それが頭に伝わり、頭がそれを翻訳する(幸せ、喜び、気分が良いなど)によって様々な感情に変換する。
 

 

心が身体をコントロールすることが出来ていない場合

(「私(自分)」が「今」にない場合)

                

         「あんなの誰でも出来る」 

         「○○の方が上手い」 などの蔑み。

   

   ※ 身体の特徴(比較、分類など)、相対的な愛が強く表現されます。

  そのため、絶対的な愛の反応が生じません。心は、「自分が絶対的な愛だ」、とは気づけません。

 

 

心が身体をコントロールすることが出来ている場合

(「私(自分)」が「今」にある場合

                

「あんなの誰でも出来る」 

 「○○の方が上手い」 などの蔑み

 

心の絶対的な愛が勝り、そうした

身体(頭)の否定を消し去ります。

       ↓

      「私(自分)」は幸せ、喜びなどを自覚し

      笑顔になったり、涙が出たりする。

      「絶対的な愛の反応」によって、

       心は「自分が絶対的な愛だ」と

       その分気づきます。     

           

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

多くの方に読んでいただきたいと思っています。

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