私はしばらくマーケットのカスリで暮らしていた人間なので、引退した現在も、惰性で経済ニュースをよく見る。
で、情報サイトの「ジモティー」がマザーズで株式公開も初値つかず、2日目に2.3倍で寄り付いた、というニュースをボーッと眺めていた。
……そういえば、洗濯機の調子が悪い。
表示では30分で済むところ、なぜか1時間たっても終わらない。
2010年製造なので、10年モノだ。
使えるのは7年です、と本体のシールに書いてある。変なことを書くな、パナソニック。
その前の東芝は、20年も使えた。
壊れるまで使いたかったが、さすがに外側がボロボロになったので捨てた。
今回は、まだ壊れてはいないが調子が悪い。
そのまましばらく使っていたが、自然に直る気配も、さらに壊れる気配もない。
私は暇人なので、洗濯ごとき何時間かかっても構わない。
しかし、たまにやってきて勝手に洗濯をしていく母親には、すこぶる評判が悪い。
で、彼女が勝手に新しい洗濯機を買いそうな勢いだったので、いや、べつに買ってもいいのだが、ふと思いついた。
ジモティー使ってみよう。
検索すると、ちょうどいいタイミングで見つかった。
人より猿が多い(過剰な誇張表現)ド田舎で、たまたま、ご近所に「新しい洗濯機を買ったので古いほうをあげます」というキトクな方がいた。
連絡を取り、とんとん拍子に取引成立だ。
とある週末の午後、祖母のために購入した車いす仕様とは言い条、荷物を運ぶのにも最適な後部スロープつき福祉車両に、ひさしぶりにエンジンをかけた。
で、洗濯機運搬用の台車を積み込もうとトランクに手をかけて、止まった。
開かない。
それまでも食料の買い出しに、たまには乗ってはいたが、トランクを開けるのは久しぶりだ。
数か月以上も使う機会がなくて、バックドアに触れもしなかった。
それが開かない、というのは神の啓示、神罰だろうか。
ばあちゃんスマン。
ともかく、早めに家を出ようとして正解だった。
1時間ほど余裕があるので、先に修理をしよう、と田舎の坂道へ乗り出した。
さしあたりトランクが開かない以外の問題はないようだ。
エンジンは快調に吹け上がる。
さて。
私は基本的に、自分でできることは自分でやるようにしている。
車関係についても、電装品などできる範囲は自分で取り付ける。
専門技術が必要な板金や足回りなどは別として、DIYがモットーだ。
しかし、ドアが開かない。
これはDIY案件の域を超えている……気がする。
すくなくとも内張を剥がしてケーブルを見て、などとやっている時間はない。
餅は餅屋だ。
修理してもらおう、という判断は迅速だった。
なにしろ時間もないし、自分の力が及ばないと判断したら、すなおに「餅屋」を訪ねるに限る。
自力を捨て、他力にすがる。
仏教的な思想が脳裏をめぐったが、皮肉にも、それは「たらいまわしゲーム」の始まりだった。
助けてくれそうなクルマ関係業者を、立ち寄れる順に訪ねた。
GSの店員にどうこうできる問題ではないところまではよい。想定の範囲内だ。
が、次に寄った有名なカー用品店で軽くあしらわれたことには、だいぶ萎えた。
忙しいから無理ですと、見てすらもらえなかった。
次に、町の自動車屋に行った。
そこのおじいさんはやや親切で、一応は見てくれたが、車に乗るのも一苦労の老人で、結局はなんの役にも立たなかった。
板金屋に行ってくれと言われ、店を紹介してくれたことに親切を感じはしたが、その板金屋も、役には立たなかった。
人手が足りないとか、預かりになるが代車がないとか、どうにか追い返そうとしているように感じられた。
もちろん、この時点で私は理解している。
バックドアが開かない程度の修理では、利益が出ないのだ。
預かって代車まで出したところで、ろくな儲けも出ない客は帰してしまおう。
忖度するまでもない。
手間がかかる、利益にならない客は、断られて当然なのだ。
彼らの結論は一様に、ディーラーに持って行ってくれ、だ。
たらいの行き着く先は、製造物責任を負うべきメーカー直営のディーラーだった。
しかし、わが田舎街に、直営店など存在しない。
あなた方に、はっきりと言っておく。
ここは田舎ではない。
ド田舎なのだ。
まあドはつくものの、隣には一応、中核都市がある。
そこまで1時間以内には行けるので、日常の不便はさほどない……が、現状、往復するには時間が足りない。
取引の約束は2時。そして現在1時半。
そもそも修理の時間を考えれば、間に合うはずもない。
よく理解した。だれも助けてはくれない。
しかたなく「自力救済」をはかった。
バックドアが開かないなら、後部ドアを使えばいいじゃない?
オレー・アントワネットの発想に開眼した。
大物の白物家電ではあるが、しょせん洗濯機だ。
6ドアの大型冷蔵庫を、上がり框の段差もなんのその、独力で移動させたこともある。
毎日ちゃんと筋トレもしている。
できんことはあるまい。
というわけで、覚悟を決めて約束の時間通りに訪問した。
そして「全部こちらでやります」という約束通り、手伝いを求めることなく、裏口に置いてある洗濯機を引き取った。
たとえ運べなくても、約束通りに行動するのは当たり前だ。
できんことを言ってはならんのだから。
で、バックドアの開かない車と、中古の冷蔵庫が、田舎道にぽつねんと並ぶ。
私は気合を入れ、目測で「どうにか入るな」と確認、よっこらせと持ち上げた。
横倒しにしてぎりぎりの後部ドアの隙間、なるべく当たらないように押し込み、車内で立て直す。
重さより、位置をコントロールするほうが難しかったが、どうにかやっつけた。
なんでも、やればできる。ともかく、やってみよう。
それこそ大人チャレンジの精神だ。
ドアの修理はいまのところスキルが足りないが、ちょっとした知識を追加すればできるはずだ。
ともかく自分でできることはやろう、と思ったところまでが、今回の話の壮大な前振りである。
私はこの件で、なにを思ったか。
だれも助けてくれない、と世間の人々の不親切を慨嘆するか?
否。
たしかにムカつきはしたが、そりゃそうだろうな、とむしろ納得し、受け入れる方向に落ち着いた。
助けを求めたところで、助けてもらえるとは限らない。
それが世間というものだ。
しかし一方で、世間には「私が助けを求めていそうだと気付いたら、なにも言わなくても助けにきてくれて当然、それをしないやつは悪人」とまで言い切る、甘ったれた人々が存在することも、また事実だ。
昔、企業研修でやったオリエンテーション(コンセンサスゲーム)を思い出したので、ぜひみなさんも考えていただきたい。
だれが一番の悪人か。
登場人物は5人(5段階評価用)。
「無人島での出来事」というタイトルで検索されれば出てくると思うが、時間のない人のために、手短に説明しよう。
とある船が、嵐のため沈没、乗客は2隻のボートに別れ漂流した。
一隻には「若い女性」と「水夫」と「老人」、もう一隻には女性の「フィアンセ」とフィアンセの「親友」が乗っていた。
若い女性の乗ったボートは、ある無人島に漂着した。
彼女はフィアンセを探したが、見つからない。
すこし離れたところに同じような島があることに気づいた女性は、フィアンセがいるかもしれないと思い、水夫にその島に連れて行ってくれるよう頼んだ。
水夫は、一晩自分と過ごすことを条件に了承した。
若い女性は悩み、老人に相談した。
老人は「私には判断できない。あなたにとって1番大切なものを考えて決めなさい」と助言した。
結局、若い女性は水夫と一晩を共にし、水夫は約束どおり女性を隣の島へ運んだ。
浜辺には、フィアンセが立っていた。
若い女性は、うれしさのあまりボートから海に飛びこんで、フィアンセに駆け寄り抱き締めた。
彼女は迷いながらも、水夫に抱かれたことを正直に告白した。
するとフィアンセは落胆し、彼女を突き飛ばしどこかへ去ってしまった。
悲しむ女性に、フィアンセの親友が近づいて優しく言った。
「彼にはいつか話してあげるから、それまでぼくといっしょにいよう」。
話は以上だ。
ここから先、あなたの判断を問うている。
若い女性、水夫、老人、フィアンセ、フィアンセの親友の5人で、許せないと思う順位を付けて下さい。
最も許せない人が1、正しいと思う人が5です。
まず、私の結論から述べよう。
フィアンセ1、水夫2、老人3、女性4、親友5、だ。
フィアンセの親友は、一見親切らしいが下心が透けて見える、という見方をする人にとっての順位は低い。
が、すくなくとも表向きはまったく悪くないし、この先はともかく現状では正しいと判断できるので、5だ。
若い女性は、自分の商品価値を巧みに利用し、そのことを正直に告白までした。
男を見る目がなかったという減点1くらいで、さほど悪くない。4だろう。
老人は、ひらたくいえば「なにもしていない」。
良くも悪くもないので中間点、3だ。
水夫は、相手の弱みに付け込んではいるものの、やるべき仕事は果たしている。
2だ。
フィアンセは、単純に心が狭い。
純潔を重んじる宗教的な価値観の人々にとってみれば正しいのかもしれないが、その手の信仰のない私にとっては、1だ。
それ以外の考え方をする人も、たくさんいると思う。
この話だけで長いディスカッションができるので、今回は焦点を絞る。
ターゲットは「老人」だ。
私は、なにもしていない老人は、どう考えても「真ん中」だろうと思った。
プラスもマイナスもない以上、むしろ善悪をはかる指標として、中間点に置くのは至当であろうと。
にもかかわらず、世間には、彼が「いちばん悪い」と判断する人がいる。
しかも、それなりの一定数いるらしいのだ。
助けることができたのに、なにもしなかった。
もっと親身になって相談に乗るべきだった。
同じオリエンテーションに参加した女性は、そのように激しく主張した。
たぶん彼女は、世間が自分を助けてくれるのは当たり前のことで、それをやらない人々は、おしなべて悪人であるという考えらしい。
異なる考えを持つ私は、かなり呆気に取られてしまったことを記憶している。
そこがまさに、このゲームのポイントであるのだが。
合意形成を行なうことの難しさと、コミュニケーションスキルを磨くためのゲーム。
有意義な教育の先に広がる可能性の話は、また別の機会にしよう。
この話で真っ先に思い当たるのが、「イジメは助けない人も加害者」という議論だ。
傍観者は加害者と同罪、という言い方を聞いたことがある人は多いだろう。
ようやく話のタイトルに近づいてきた。
助けなかった「老人」は、要するにイジメを傍観する側の人というわけだ。
ついでに告白すれば、私も「老人」側のひとりである。
このことをもって私を悪人と判断されるなら、残念だが受け入れるしかない。
私自身は「助けない」人だ。
よって、彼らの目から私は「加害者」となる。
そこで、あえて言おう、ふざけんな、と。
なんで、助けないことが犯罪なんだよ?
私が「助けない」ことには、それなりの理由がある。
たとえば、助けを「求めていない人」は、基本的に助けない。
以前、このようなことがあった。
良かれと思って、困っているように見える人を助けて、「助けてくれなんて言ってねえよ!」と逆切れされたのだ。
いわゆる「大きなお世話」だったらしい。
そのとき私は、恥ずかしながらイラッとしてしまった。
いま思い返しても腹立たしい。いや、相手に対してではない。
イラついた「自分自身」を思い出して、腹立たしく恥ずかしいのだ。
問題は、この件で「正しいのは相手である」ことだ。
私にイラつく資格はない。なぜなら彼は、たしかに私に助けを求めてはいなかったのだから。
そんな彼を助けて、いいことをしたつもりになってしたり顔の貴様の傲慢な態度にはヘドが出る、と言われても私に返す言葉はないのだ。
全面的に彼が正しく、私が間違っている。
その事実を認めたので、以後、私は助けを求めてもいない人を助けることをやめた。
……やや話がそれた。イジメの話に戻そう。
ともかく、いちばん悪いのはどう考えても「イジメている当人」に決まっている。
それ以外の選択肢が存在すること自体、不思議でならない。
いちばん悪いのは助けない人、傍観者である、という詭弁以外の何物でもない議論が前面に押し出されている時点で、ゾッとする。
舞台俳優が、悪人と戦わず、観客に殴りかかってくるようなものだ。
イジメは基本、当人が解決すべき問題だ。
もちろんその力が足りない場合には、助けを求めるのは正しい選択だし、求めるべきだろう。
しかし残念ながら、助けを求めたところで応じてもらえるとは限らないし、見捨てられた経験を積み重ねることが人生だ、とさえ(ある意味)思う。
世間とはそういうものだ、と覚悟してそれに立ち向かう精神を涵養するのが、教育の本来あるべき姿ではあるまいか?
しかるに、彼らは(助けない)私を、加害者呼ばわりする。
これは(なにもしていない)私に対する、先制攻撃だ。
助けてくれないから悪人だ、と断言している以上、明確だろう。
この非常な違和感を覚えるロジックをもって、彼らが私を敵視するなら、よろしい、その宣戦布告を受けようではないか。
敵にも味方にもならない、と公言する永世中立国のスイスに、貴様は俺の味方にならないから敵である、と決めつけたら彼らはどう応じるか?
永世中立国は非武装ではない、むしろ重武装をもって自己の中立を守るだろう。
私はスイスほど狷介ではない。
仲間になってください、と言われれば手助けもしよう(するとは限らない)が、いきなりおまえは敵だと言われたら、ならば戦争だ、となるに決まっている。
明らかに戦略を間違えた人々には、懲罰を加えよう。
いまのところ決行する機会に恵まれてはいないが、彼らの望む敵役を全身全霊で果たす覚悟は揺るがない。
味方になってくれる可能性を潰しても、まずは敵視する、という愚策をもって、せいぜい敵を増やすがいいだろう。
ただでさえ苦しい人々を、より苦しませるために。
さて、オチだ。
現に、助けを求めて得られなかった私が、どうにか自力で洗濯機を運んで満足した日に戻ろう。
さしあたりバックドアを開ける必要もないし、修理は後でいいかと思った……が。
そういうわけにいかなくなった。どうやらキーレスまで故障したらしいのだ。
洗濯機の設置を済ませた後、しかたなく電話で問い合わせた。
ディーラー曰く、いくらかかるかは見てみないとわかりません、と言われ戦々恐々しつつ車を走らせた。
結論から言うと、その修理費用、0円。
もちろん説明が必要だろう。
担当してくれたのは20代の若者だったが、キーレスとバックドアをしばらく眺めてから、ヘラのようなものを手に後部シートへ。
……あっさり開く。キーレスも稼働。
呆気にとられる私。
若者は私にキーを渡し、説明してくれた。
半ドアのまま閉じたバックドアが、田舎の夜の寒さ(寒暖差)を受けて、ゴムの部分が吸着して開けられなくなる(もしかしたらちゃんと閉じていたのに、寒さで吸着したドアが引き上げられた結果、半ドアになった可能性もある)。
ちゃんと閉じたように見えるのですぐには気づかないが、半ドア状態だからキーレスが利かなくなる(車いす仕様の改造車両では、バックドアの半ドアを表示しない場合があるので、さらに気づきづらくなる)──。
そんな寒冷地あるある(?)を聞かされ、目からうろこが落ちた。
私は、私の知らないこと、できないことを容易にやってのけた若者に敬意を払いつつ、問うた。
「力尽くで開けようとしたら開いたってことですか?」
「いや、そしたら壊れますね、たぶん。隙間のゴム押せば剥がれるんで、ちょっとしたコツなんすよ」
修理を頼むため最初に訪ねた量販店の店員に、「ちょっとしたことかもしれないんで、見るだけ見てもらっていいですか」とお願いしたが、「忙しいから無理、ディーラー行ってください」と一蹴された私の見立ては、ある程度正しかったわけだ。
むしろ自動車屋のじいさんは何を見ていたのか。それより、さすがは慣れたディーラーのメカニックと褒めるべきか。
小学校でやった実験、断熱膨張などという言葉を思い出すまでもない。
低温で密閉された空間は圧力が下がり、外部との気温差が大きくなるほど吸着して開かない。大気の圧力、そして田舎の寒暖差とは、それほどまでに強力なのだ。
言い換えれば、内外の圧力さえ整えてやれば、簡単に開く。
シンプルな物理法則だよ、ワトソンくん。
ものの2分でキーレスとバックドアの故障(してはいないが)を直した自動車修理工。
ああいう人に、私はなりたい。
このオチから汲み取るべき教訓は、こういうことだ。
助けを求めて得られなかったからこそ、新たな発想で別の行動を選ぶことができた。
さらに、その車に詳しくない業者に預けて余計な費用がかかったであろうところ、結果的に詳しい人のところに持って行くことで修理費用が浮いた。
最初に「助けてもらえなかった」ことが、必ずしも悪い結果にならなかった、むしろ最善の結果をもたらした。これは事実だ。
事実を冷静に受け入れ、考えてもらいたい。
私を助けてくれなかったからといって、だれも彼らを加害者呼ばわりはしない。
助けないから敵だ、おまえは加害者だ、と一方的に指弾して、自分はいいことを言ったとでも思っている偽善者(と断定していいだろう、邪悪な先制攻撃者に対しては)たちは、鏡を見て知るべきだ。
自分は、「われわれの教義に染まらない者どもは罪深く、全員地獄に落ちるだろう」と叫ぶ狂信者と同じ顔をしている、と。
ちょっとした知識、きっかけで、できないことができるようになる。
いじめられっ子も、同じことではないか。
ちょっとした助けで、解決できることはある。
外野からヘタなちょっかいをかけて、足を引っ張るのはいかがなものだろう。
私自身、いじめっ子も、いじめられっ子も経験している。
結局いちばんバランスがいいのは、どっちにも属さないことだ。
私の場合、無視してもらうことは、ある意味、救いですらあった。
孤独を愛する、人間ぎらいの傾向をもった、私個人の性格のせいかもしれないが。
傍観者は、敵でも味方でもない。
あなたが、だれかを助けるのも、傍観するのも、自由なのだ。
そして、まず叫ぶのではなく、よく考えよう。
世界を傍観して考えることは、とても大事で楽しいことだ。
傍観者は悪くない(良くもないが)。
と、異論反論オブジェクションと思われる自説を重ねて申し述べ、締めくくるとしよう。
長文失礼しました──。