江戸時代、切捨御免(きりすてごめん)という制度があった。

 他人を切り捨て(殺し)ても、ゴメンって言え(謝れ)ば許す制度……ではないのだが、まあそういうニュアンスを想起する人は多いだろう。

 

 町人や農民などが武士に無礼を働いたら、その場で殺してよい。

 「この町人は無礼を働いたので、手討ちにしたぞ」と、武士が言うだけで殺人が合法化された。

 

 ……かのようなイメージがあるが、もちろんそんなことはない。

 適用には厳格なルールがあったが、あまり知られていないのはなぜか。

 

 おそらく戦後、権力批判が正当化されるご時世において、時代劇や落語家などがくりかえし誇張して表現してきた結果だろう。

 権力批判を旨とする、リベラルな人々の「成功」例のひとつ、といってもいい。

 

 

 本稿はリベラル批判ではないが、彼らが掲げている重要な旗印のひとつに「弱者保護」があることを、まずは念頭においてほしい。

 弱者の言葉ほど、重んじられなければならない、という「美学」だ。

 

 今回は、その金科玉条に最適化された「組織の問題」について分析する。

 言い換えれば、直近の合理的な文脈を「切り捨て」、致命的なエラーを吐く「御免の制度」である。

 

 まず思い出してほしいのが、巨人の阿部元監督の例。

 父親に意趣返ししたい娘が、暴力を受けたと誇張して児相に訴えた結果、警察が介入して父親が失業した。

 

 娘もまさかこんなことになるとは思っていなかったようで、世間からもだいぶたたかれていた。

 ともかく、だれも得をしなかった事件である。

 

 もっとひどいのが、兵庫県警の人質司法の例だ。

 障碍者が誇張して「職員が暴力を働いた」と訴えた結果、県警が16歳の少女を逮捕、その後、衰弱死させた。

 

 障碍者が訴えているのだから真実である、と淡々と手続きを進めた刑事警察機構。

 訴えが事実かどうかさえ、ろくに捜査しなかったらしい。

 

 これら二つの事案を前にして、世間は「警察の怠慢だ」「児相の無能だ」「権力の暴走だ」と一元的な批判の声を上げる。

 しかし、事象の構造を冷静に解析すれば、彼らはけっして「怠慢」だったわけではないことがわかる。

 

 むしろ逆だ。

 彼らはマニュアルと、それを後押しする現代の社会規範に「過剰適応」しただけなのだ。

 

 

 過去の虐待見逃し事件において、行政や警察はメディアから猛烈なバッシングを浴びてきた。

 「なぜ未然に防げなかったのか」「通報があったのに見過ごした」と。

 

 この強烈なトラウマは、組織内に「ゼロリスク・アプローチ」を至上命題として植えつけた。

 その結果が「疑わしきは即介入(逮捕・保護)」というアルゴリズムである。

 

 このアルゴリズムが発動した瞬間、現場の個別のコンテキスト(文脈)は完全に切り捨てられる。

 娘の親に対する一時的な牽制であったとか、福祉現場特有のパニックに陥った利用者を物理的に制止しただけであったとか、関係ない。

 

 そうした人間の生々しいグラデーションは、すべて「加害者の言い訳」として処理される。

 まさに現代の「文脈・切捨御免」だ。

 

 

 とくに兵庫県警の事例は、日本の刑事司法が抱えるバグの最悪の結晶と言える。

 なぜ警察や検察は、周囲の目撃証言や防犯カメラといった客観的証拠の検証を放棄し、一人の訴えだけで限界まで勾留をつづけたのか。

 

 答えは簡単。

 彼らの評価システムにおける「インセンティブの非対称性」である。

 

 通報を見逃して事件化した場合、組織が受けるダメージは致命的になる。

 いっぽう、不十分な証拠で逮捕し、長期間勾留した末に不起訴になっても、あるいは裁判で無罪になったとしても、担当した検察官や警察官の給料が減ったり、降格されたりすることはシステム上ほぼない。

 

 さらに、日本の司法には「否認すれば証拠隠滅の恐れあり」として最長まで勾留を延長できる、悪名高き「人質司法」のプロトコルが標準搭載されている。

 ペナルティのない安全圏から、マニュアル通りにボタンを押すだけで、彼らは「弱者の声に迅速に対応した優秀な捜査官」という評価を得られる。

 

 被疑者が16歳の未成年であろうと、体重が20キロ台まで落ちて死にかけていようと、関係ない。

 システムは「自白の獲得と手続きの遂行」にのみ、最適化されている。

 

 皮肉な話だが、担当官が「優秀な歯車」であればあるほど、止まることができないのだ。

 仮に訴訟になり、民事で負けたところで、国家賠償法という名の防壁が個人の責任を完璧に免責し、ツケは税金で払われる……。

 

 

 輪をかけて皮肉な話をしよう。

 この致死的なエラーの黒幕には、リベラルの人権意識があることだ。

 

 「弱者保護」を高らかに叫ぶ彼らは、「弱者の声を疑うな(二次加害を許すな)」という純粋な正義を掲げる。

 一時的に興奮していた娘とか、認知能力の低い障碍者といった個別の事象は、彼らの文脈において「切り捨て」られる。

 

 いや、だいたい「イデオロギー」というものは、現実の複雑な人間関係を「絶対的な加害者」や「純粋な被害者」などという、滑稽な二元論に還元してしまうものだ。

 そして「弱者の声」というただひとつの入力信号で、本来であればもっとも警戒すべきはずの国家権力(逮捕・勾留)を、ノーブレーキで発動させることを社会正義として肯定してしまった。

 

 リベラルな理念が、文脈を読めない官僚制の機械的アルゴリズムと結合した結果、どうなったか。

 保護すべき弱者(未成年)までも巻き込み、人の命やキャリアを不可逆的に破壊する最悪の殺戮マシーンの完成である。

 

 惨劇が起きたあと、人権屋は「警察の運用が悪かった」と責任を外部化する。

 しかし、暴力装置の作動基準をそこまで極端に引き下げた共犯者は、まちがいなく彼ら自身だ。

 

 

 余談だが、奇しくも先日、私が個人的に使っているAIアシスタントも、これとまったく同型のバグを吐いた。

 私が対話の流れに沿って短い質問を投げたところ、直前の文脈を完全に無視し、突如として見当違いなエラー(再質問)を返してきたのだ。

 

 原因は、私がAIに設定していた「不確実な推測で出力を行うな」という上位ルールへの「過剰適応」だった。

 AIはルールに忠実であろうとするあまり、直前の文脈を「不確実な変数」として切り捨て、もっとも安全な出力へ機械的に逃げ込んだのである。

 

 このAIの暴走も、国家権力の暴走も、論理構造は完全に一致している。

 「マニュアル(ルール)への過剰な忠誠が、現場の文脈を殺す」のだ。

 

 まあAIが文脈を無視して謎の出力を吐いたところで、私の被害は「一瞬イラッとした」だけで済む。

 しかし国家権力や行政の介入による逮捕、解雇、そして死は、けっして元には戻せない。

 

 この構造的バグを、どう修正すべきか。

 私がAIに対して用いた例を参考にして、考えてみよう。

 

 

 「ルールを緻密化して例外規定を足せばいい」というアプローチは、必ず破綻する。

 無限に広がる現実の文脈を、有限のマニュアルに書き尽くすことなど不可能だからだ。

 

 ルールを足せば足すほど矛盾が生じ、機能不全で使い物にならなくなることは、うちのAIがくりかえし証明してくれている。

 これが現場なら、さらに萎縮し、予測不能な過剰適応を起こすだろう。

 

 私たちが受け入れるべき残酷な事実は、「システムは必ず文脈を読み違え、エラーを吐く」という大前提である。

 バグをゼロにすることはできない──ならば、設計すべきは「エラーが起きても致命傷にならないアーキテクチャ」への転換しかない。

 

 警察や児相が最大権力を行使する直前に、あえて別の第三者による「人間の審査(コンテキストの読み込み)」という遅延を強制的に挟み込むこと。

 効率は落ちるが、意図的にシステムを一時停止させるフェイルセーフである。

 

 そしてなにより、客観的証拠の検証を怠り、他者の人生を不可逆的に破壊した担当者に対しては、国家賠償とは別に、個人の評価や給与に直接ダメージが及ぶ「逆方向のペナルティ」をシステムに実装することだ。

 やりすぎた場合のリスクを、見逃した場合のリスクと同等以上に設定しない限り、現場の力学は変わらない。

 

 

 私が感じた恐怖は、おそらく現代の武士たちが「システムという名の見えない刀」を、ノーリスクで振り回していることに対するものだ。

 「文脈の切捨御免」を、野放しにしてはならない。

 

 その刀に「可逆性」という鞘と、「手痛いしっぺ返し」という呪いをかけないかぎり、悲劇は再生産されるだろう。

 いつ、だれの気まぐれな通報によって、合法的に切り捨てられるかわからない社会なんて……まあ、よくある。

 

 わかりやすいのは共産主義国が採用した、地獄のような密告社会。

 戦前の日本の特高警察も、図式としては同じだ。

 

 自由の国などと言い条、アメリカだってセイラムの魔女裁判(少女が魔女だと告発すれば裁かれた)をくりかえしている(赤狩りなど)。

 すべて「神の声」「非国民」「反革命」といった正義への「過剰適応」だった。

 

 そして戦後日本では、勝利したリベラルな方々の声が大きすぎるせいで、同型の悲劇が引き起こされているという喜劇。

 ここまで読まれた方は気づいているだろうが、これらの例はすべて偏った正義に起因する「構造問題」なのだ。

 

 正義と善意が不幸の源泉だなんて都合の悪い真実に、気づかず生きるほうが幸福のような気もする。

 そんな幸福な無知に背を向け、どっこい私は生きていく。