ラーと納豆……。
納豆にラー油入れるタイプ? という話をするわけでは、ない。
親が『遊戯王』好きで、子どもに「太陽神(ラー)」と名づけた。
現在、ラー氏は改名に向けて動いているらしい。
SNSに流れてきたこの手の話題は、たぶん浜の真砂くらい尽きることがない。
ひとことで言えば、自分が正義だと思い込んでいる人間の「善意」や「愛情」が、他者のシステムを致命的に破壊しがち、という悲しい真理だ。
キラキラネームについての私見は昔、るる述べたことがあるので、今回はあまり踏み込まない。
ただ漠然と、うちの親を思い出した、という話をしたい。
もちろん記名の精神で執筆している本ブログのとおり、私の名前はキラキラしていない。
日本に5億人くらいいそうなよくある名前で、とくに苦労したこともない。
つまりうちの親は、すくなくとも「名前」という長期的なダメージを子どもに与えるほど、愚かではなかった。
が、短期的には文字どおり「近視眼的」な行為で、子どもにダメージを与えることがある。
毒親というほどではないが、やっかい。
そういう親族を身近にもっている方々は、すくなくないと思う。
とても「小さい話」であることを、まずはお断りしておく。
小粒な納豆の話だ。
私は亡くなった祖父母の家をもらって、群馬の山奥で独り暮らしをしている。
そこへ、たまさか埼玉の実家から、親がやってくる。
そのとき意外に迷惑だったのが、納豆を買ってこられることだ。
日常の買い物の一助といえばそうなのだが、私は自分が必要なものについては、自分で調達することをモットーにしている。
自分でできることは自分でやるし、そのために最適化されたミニマルな生活を送っている。
そういうタイプの人間にとって、この「おせっかい」という変数は、地味に精神を削ってくる。
納豆は食うのだ、必ず1日1パック。
言い換えれば1パックしか必要なく、期限内に消費できなければゴミになる。
なにより問題は、実家から1時間以上の道のりを経た冷蔵食品の納豆を、暑い夏場ですら平気で置いて行ける精神構造である。
ふつうに食えばだいたいうまい納豆が、うちの母親の手にかかるとまずくなる……。
そもそも私の舌がバカである原因の半分を背負うべき母親には、品質管理という概念が希薄だ。
自分が食うものですらテキトーな彼女にとって、他人が食うものならなおのこと、どうでもいいにちがいない。
生鮮食品を常温にさらしていても、べつに平気。
そうして期限切れでドロドロになった納豆を食わせたところで、彼女の舌は1ミリの苦痛もなく、引きこもりの息子に納豆を買っていてやった、という満足感だけで済む。
なにしろ「自分が食うわけではない」。
ここ、とても重要だ。
子に「ラー」と名付ける親の心理も、これとまったく同じ構造なのだと気づく。
彼らの能力の低さは、「想像力のなさ」と言い換えてもいい。
一時の熱狂でつけた名前が、子どもの一生にどんな負債を与えるか、という想像力。
その納豆が品質に問題なく期限内に食べきれるか、という想像力。
だいぶレベルはちがうが、「自分が良かれと思ったこと」という自己都合と、「他人がそれをどう受け取るか」という他者の都合を、脳内でバランスできていない。
いや、そもそもバランスしようと考えてすらいないのかもしれない。
一時の熱狂でも、自己満足でもいいが、彼らの近視眼が設定している世界は非常に狭く、独自の価値観にもとづいて完結している。
そして、なぜその想像力が働かず、バランスが著しく崩れるかといえば、彼ら自身が「自分の舌を痛めない」、つまりコストを一切負担しない安全圏にいるからだ。
自分自身の責任の範囲内で収まっているあいだは、勝手にすればいい。
だがそれを他人に向けはじめると、火種になる。
親は「自分が最高だと思う価値(名前)を与えた」という満足感を無コストで得る。
しかし、その特異な名前によって生じる一生分の社会的摩擦や訂正の手間を支払うのは、100%子ども側である。
納豆という一時的な被害で済んだ私は、さいわいだ。
数日間ほど、食事のたびに不愉快な気持ちになれば、それで済む。
いくつかの反論は想定できる。
よくあるのは「愛情からやったことなのだから」と、動機を盾にして情状酌量を求める考え方だ。
一部の邪悪でサイコパスな「毒親」のように、完全な自己中心や悪意があるなら論外だ。
しかし一般的な親は、あくまでも善意で行動している。
「せっかく年老いた母親が買ってきてくれたのだから」という道徳的な擁護は、必ず飛んでくる。
私自身、そう思って最初は受け入れていた。
だが、この反論は実際問題、他者が負担している実害を完全に無視している。
動機が善意であろうと、結果として他者の人生のインフラにバグを強制インストールし、実害を発生させている事実に変わりはない。
責任(コスト)を伴わない善意の押しつけは、加害者の無自覚な消費行動にすぎず、被害者がそれを道徳的に受容する義務などどこにもない。
一般原則にもあるとおり、「目的は手段を正当化しない」のだ。
では、事象を俯瞰する能力がない「善意の親」に、われわれはどう接すればいいのか。
最適解は、物理的・制度的な「排除」と「システムの正常化」である。
ラー氏が成長し、自らの手で改名手続きを進めているのは、きわめて妥当な自己修復プロセスである。
親がバグらせたストック情報を、自らのコストで正常化させるために背負った労苦は、避けがたい必要経費だろう。
いっぽう、どうでもいいが納豆という微々たる損害を受けつづけていた、私の場合はどうか。
じつのところ前述した当初のモラトリアムは、不作為で解決されている。
毎度、母親のもってくる納豆のまずさに辟易し、「買ってこなければいいのにな」と思ってはいた。
が、せっかくこのわずかなことで自己効力感を得、満足しているだろう年老いた彼女のために、なにも言わないでいた時期もある。
その後、別件でぶち切れて「もう来るな」と命じた話は、以前書いた気がする。
これをもって親不孝者と罵られるとしたら、よろしい、受け入れよう。
悪意に対処するのは、案外たやすい。
ほんとうにやっかいなのは、あくまでもポジティブな「親の愛」を免罪符にして、無自覚に他人の領域を荒らしていく人間だ。
この手の問題に接したとき、私はいつも思う。
小さな親切大きなお世話、自分が正義だと思っているやつらほど度し難い、と。