まずは事件のあらましをまとめよう。

 恋愛リアリティ番組『ラヴ上等2』において、出演者が過去の加害行為として「人に火をつけた」と笑いながら告白するシーンが配信され、文字どおりそこそこ炎上した。

 

 この過激な番組に対し、法務省が「更生」をテーマとしたタイアップ企画を実施していた事実が、火に油を注ぐ事態となった。

 重大な犯罪行為を武勇伝のように消費する番組内容と、そのコンテンツに「公共的なお墨付き」を与えて利用した行政の判断基準が、厳しく問われた(現在は取りやめ)。

 

 たいした話ではない気もするが、当事者にとっては重要かもしれないので一応、分析してみようと思う。

 さして関係ない個人が、本件を俯瞰するとこうなる、という事例として記録する。

 

 

 この手の記事が出たとき、ふつう読者はどう処理するか。

 おおむね以下の2パターンが想定される。

 

 お気に入りのだれか(もっぱら被害者)を選んで共感し、その傷心や将来を慮る。

 目的は自分の善良な精神を満足させることだ。

 

 あるいは悪役を決めて指弾し、正義は我にあると主張する。

 目的は自己の懲罰者としての溜飲を下げることだ。

 

 いずれも楽だし、気持ちは理解はする。

 しかしそこで終わりたくない私は、まず「全員に正当性がある」という出発点を固めてから、考えはじめるようにしている。

 

 

 順番に処理しよう。

 本件の発端は、とりもなおさずフレームを提供している制作側、MEGUMI氏をはじめとするエンタメ産業だ。

 

 彼らの内部論理については、とてもわかりやすい。

 表現の自由と市場原理の遂行、アテンション・エコノミーにおける利益の最大化だ。

 

 「過激な過去」や「炎上」をトラフィック(視聴回数)という資本に変換する。

 視聴者の覗き見趣味や刺激を求める需要に対し、最適化されたコンテンツを供給するビジネスとして、きわめて正しい。

 

 

 つぎに、番組出演者について考えよう。

 本件においては「火をつけた」側、つまり加害者だ。

 

 彼らの目的は、過去の違法行為や逸脱を、「ストリートクレド(不良としての箔)」という価値に変換し、現在のインフルエンサーとしての生存・承認競争を勝ち抜くことにある。

 チンピラが、それほど深く考えてないだろ、という反論もあるかもしれないが、構造としてはそうなのだ。

 

 そのために彼らは、番組側が求めるキャラクター(ヒールからの更生・純愛)に合致するリソースを提供しなければならない。

 「すでに過去のこと(あるいは清算済み)である」という自己免罪に、法務省からもお墨付きが得られれば言うことなし、社会が要求する「更生」というフレームにも合致する。

 

 

 問題は、その被害者だった人々、および同調する大衆だろう。

 他者への加害行為を「自己実現のコンテンツ(武勇伝)」として消費・収益化することに対する、尊厳の侵害という絶対的拒絶がある。

 

 被害の不可逆性の提示と、「加害者が過去の犯罪をリソースにして利益(名声)を得ることは社会基盤を破壊する」という、普遍的な社会正義の執行。

 炎上の燃料は、おおむねこの論理に符合する。

 

 ある番組で、ギャルタレントが「ヤンキーって実は優しい」という趣旨で、「彼氏も爆音でバイクに乗るが自宅近くでは音を小さくする」と話したらしい。

 すると芸人が、「町ではうるさくして人に迷惑かけといて、自分の彼女とか身の回りではいい顔する、それが嫌いなんだよ」と反論したという。

 

 あまりにも正論であるとして、語り継がれている。

 事実「身内だけに優しい人間」は、社会全体のシステム管理者視点において「いい人(道徳的善)」には該当しないからだ。

 

 

 最後に炎上の掉尾を飾ってくれた行政側、法務省の論理を述べておこう。

 「更生」の物語を通じた再犯防止と、それに伴う社会的コスト(治安維持費・矯正費用等)の削減、そして従来のお堅い広報では届かない層(若年層・潜在的非行層)へのリーチ。

 

 公共PRにおける費用対効果の追求。

 民間コンテンツの強い影響力と文脈を「借景」し、行政施策の周知を最大化するための実務的な最適解を選んだ……つもりだった。

 

 このお役所仕事については、とくに理解してやる必要もない。

 一般人にとっては、本当につまらん連中なのだ。

 

 

 さて、プレイヤーがそろったので、解析をはじめよう。

 まず、つまらん理屈で事態をややこしくした、「法務省」の失態から。

 

 その対立軸は「番組の道徳性」ではなく「公共主体の説明責任」である。

 市場原理と公共性のミスマッチについては、上に書いたとおりだ。

 

 本件の事象を構成するアクターの内部論理は、完全に分断されている。

 制作・出演者側の論理(市場原理)は、刺青を露出し、過去の悪事を武勇伝として語り、掴み合いの揉め事を起こすこと。

 

 これらは通常の恋愛リアリティ番組の枠組みを逸脱しているが、「ワルだった自慢」をデフォルトとし、一部の層にウケるパフォーマンスとして最適化された結果でもある。

 彼らは「売れそうなコンテンツ」を生成・供給しているだけであり、民間ビジネスの論理としては正しい。

 

 いっぽう行政側の論理はどうか。

 公共団体によるコンテンツとのタイアップは、民間作品の知名度や世界観を「借景」し、行政施策の周知を図る手法である。

 

 過去の観光協会によるアニメポスター撤去事例や、医療関連団体の企画への批判事例など、構造はまったく同じなのでわかりやすい。

 いずれも問われたのは「どの表現を、だれに向け、どこ(公共空間)に掲示したか」という主体側の運用エラーである。

 

 

 さらに予想される論点や反論を、手短にまとめておこう。

 結局はそれを主張する人間の立ち位置と、境界線の問題に帰着するのだが。

 

 ──更生していない出演者や、刺激的な番組を作った側が悪い?

 制作側は市場の需要に応えているにすぎない、それが「悪」なら社会が悪い。

 

 ──公共団体は、出演者に瑕疵がなく、一切の刺激的表現がない作品のみを選ぶべき?

 旧内務省でもあるまいし、それはやりすぎだ。

 

 個々の出演者の好ましさや、作品内の一部表現のみを絶対的な基準(各論)として事前検閲を行えば、公共団体は事実上いかなるコンテンツともタイアップできなくなる。

 かりに無菌状態のコンテンツをつくってもアテンションを獲得できず、施策周知という本来の目的が破綻する。

 

 なかには──ほんとうにやむを得ず悪事を働き、真摯に更生した元ヤンもいるのだから、企画じたいを全否定すべきではない?

 なるほど、そういうこともあろうが、じつのところ説得力はない。

 

 「しかたなく悪事をはたらいた」「イキがっていたわけではない」という真摯な更生例が存在することは事実にしろ、それを全体の基準にするには「元ヤンコンテンツ」の基本構図が悪すぎるのだ。

 例外的な美談をベースラインに設定すると、事象全体の評価を見誤る。

 

 

 まとめよう。

 本件の最大のバグは、公共団体が「更生」という言葉を無批判に採用したことにある。

 

 エンタメにおける「更生」は、過去の武勇伝を正当化するための免罪符(パフォーマンス)として利用される傾向が強い。

 どこからどこまでを指して「更生」と呼ぶのか、その定義はきわめて曖昧である。

 

 公共団体は、この「曖昧なフロー情報(番組上のキャラ付け)」に依存し、明確な「ストック情報(タイアップにおける公共性の基準)」を持たないまま企画を進行させた。

 結果として、エンタメの文脈では許容される「境界線」が、公共空間の「境界線」を侵犯し、炎上という形での社会的排除を引き起こした。

 

 本件を「だれが悪いか」という一次元的な道徳劇として消費しても、再発防止にはつながらないだろう。

 もちろん、われわれがそんなことを考えてやる義理もないので、その方向への深掘りはやめておく。

 

 公共主体がエンタメの力を借りる以上、ある程度の毒(刺激)は不可避である。

 問われるべきは、その毒をどの濃度まで、いかなる文脈で公共空間に持ち込むかという「キュレーションの精度」と「批判を引き受ける覚悟」だった。

 

 それが担保できないのであれば、はじめから劇薬である民間コンテンツの借景など行うべきではない。

 そして行き着く先は「定義と境界線の問題」にすぎないのだ。