暇なのでよく映画を観ている。
以下、暇人の妄言として読み流していただきたい。
いわゆる「ジェンダー」敏感層に向けて製作されている映画が、少なくない。
というか、多い。
思惑は理解しているつもりだが、避けられない逆効果が蓄積している。
まずはわかりやすい『白雪姫』問題からはじめよう。
1937年、ディズニーによって名作アニメ『白雪姫』が製作された。
その後も「スノーホワイト」の名を冠した映画は、両手の指で足りないくらい製作されている。
その本家ディズニーが2025年、満を持して『白雪姫』を実写化した。
レイチェル・ゼグラーという褐色の肌の白雪姫が、女性が自立して生きることを……。
と、この件については以前にも書いたので、深入りしない。
まあ結論からいうと、大コケした。
ところで2019年、ドイツとチェコが製作した『スノーホワイト 白雪姫とドワーフの魔法』をご存じだろうか?
新解釈をまじえて展開された「新たな白雪姫」なのだが、これが「微妙」だった。
個人的には、きらいではない。
スーパー美女という触れ込みの「白雪姫」役を、どこにでもいそうな女の子が演じることは、学芸会的に正解だ。
ふつうにかわいい彼女を「ブス」と表現する、一部の心無い人々についてはどうかと思う。
問題は「国一番の美女」とかいうフリのほうだろう。
日本のアイドル市場でも、ちょっとかわいい女の子に「女神の美貌」とか「今世紀最高」とかいう惹句を使いたがるが、個人的には逆効果だと思っている。
これから大爆笑まちがいなしの話をしますよ、と芸人が最初に言わないのは、ハードルを上げすぎるのは悪手だからだ。
ともかく物語としては、チンピラドワーフが魔法を使えるとか、女王とつながっていて……などの新設定が、使い方によってはおもしろくなりそうな気配を感じさせた。
告発者である「魔法の鏡」もいい味を出している。
うまくやれば準名作になりそうな設定なのだが、あまり話題になっていない時点で、一般的にも「微妙」だったのだろう。
もっと振り切るべきだ、とディズニーが判断したのかどうかは知らない。
数年後、国一番の美女を「ふつうの子」どころか「異人種」が演じるまでになった。
ポリコレが行きつくところまで行った結果だと思っている。
ジェンダーをどう使うかは「政治」になった。
いわゆるポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)は、大きく社会を変えた。
男女、人種、年齢などで差別してはいけない、という近代社会の結論。
それ自体に異論を挟むつもりは、あまりない。
自立した女性が能力を最大限に発揮することは正しいし、むしろそうして欲しい。
が、だからといって旧来型の「女性性」を駆逐していい、という話にはならないし、なるべきでもない。
「差別しないこと」と「生物として同一であると言い張ること」は、まったく別の話だ。
そのへんを履き違えて映画をつくるから、奇妙なことになる。
プリンセスや王子さま、といった「役割」には、最初から共通理解やバイアスというものがある。
それを無理やりジェンダー平等の枠組みにはめようとするから、壊してはいけない部分を破壊してしまうことになる。
そもそも、こうした「役割」の共通理解は、社会が勝手に作り出したものではない。
何百万年という人類の進化の過程で、生存のために最適化された生物学的な分業に由来しているのだ。
技能や適性に明確な男女差が存在することは、生物学の世界では常識だ。
しかし現代では、この事実に触れるだけで「フェミニズムへの攻撃だ」と憤慨する人々が現れた。
Woke=目覚めた人々=意識高い系。
ポジティブな合言葉として使われ、社会を改革するのに役立ったことを否定はしない。
結果として「萎縮」がもたらされた。
性差別と取られるのを恐れた管理職はノーコメントを貫き、だれもが本音と建前を使い分け、おびえている……。
そこに「反発」が押し寄せるのは、自明の理だった。
トランプやマスクなどによるアンチ・ウォーク(Anti-woke)は、大きな流れとなっている。
何百万年もの間、男女は生存のために役割を分担して進化してきた。
この厳密で神聖なルールに対し、ごく最近になって「男女に違いはない。同じだ、平等だ、同じように扱え」と主張する人々が押し寄せた。
適性も能力も異なるふたつの種族を、同じ鋳型にぶち込めと強要している、かのように見える。
脳の配線も、身体の機能も、最初からまるで違うのに。
昔読んだ本に、こんなことが書かれていた。
休息中、男性の脳は7割が活動を停止しているが、女性の脳は9割が動いている。
男性がぼんやりしている間も、女性の脳は周囲から情報を拾い上げ、分析しつづけている。
男が狩りに出ている間、女は洞窟で子どもを守り、周囲の安全や微細な変化に気を配る必要があったからだ。
子どもたちに対する注意は、母親の義務だった。
父親にとって我が子は「なんだか小さい人が家にいる」程度だが、母親にとっては子どもの恐怖や企みまで見通さなければ、家族として生き残れなかった。
皮膚感覚ひとつとってもそう、女性の皮膚は男性より10倍も敏感で、オキシトシンによって触れ合いを求める。
女性どうしの会話で身体接触が多いのも、大阪のおばちゃんが背中をバシバシ叩いてくるのも、生物学的な必然だ。
対して男性の皮膚は分厚い。
四足歩行時代の名残で背中の皮が厚く、過酷な狩りや戦闘時の痛みに耐えられるよう、触覚への感受性は20歳までにほぼ消失する。
狩りに集中している男は、怪我にも気づかない。
ただし、集中が切れた家の中では痛みにからきし弱く、ゴロゴロ転がりながら泣き言をほざくことになる。
嗅覚や味覚も、女性のほうがはるかに鋭い。
女性は排卵日前後になるとさらに匂いに鋭敏になり、男性の匂いから免疫系の状態を解読する。
自分にない強力な免疫遺伝子を持つ男に「不思議な魅力」を感じ、貧弱な男には一切の食指が動かない。
この判定にかかる時間は、わずか3秒だ。
男の子が謎の踊りで爆笑し、おならに火をつけ、カエルを爆殺して遊んでいるお年頃。
女の子は、すでに微妙なボディランゲージから他人の感情を読み取り、高度な駆け引きを展開している。
この話は、たしか世界的ベストセラー『話を聞かない男、地図が読めない女』あたりに書かれていたと思う。
全面的に賛成はしないが、説得力があったことは事実だ。
「人間は生まれたときは真っ白で、教育や環境でどうにでも育つ」というのは、教育者の心地よい幻想にすぎない。
実際には、受胎後6〜8週間で精神の基本構造は形作られ、生まれた時点でひとつの完成したマシンとして起動している。
親や学校が後から追加できるのは、いくつかの互換アプリ程度だ。
そこには基本性能の異なる、2台のマシンがある。
もちろん、性差を凌駕する個人の特異な才能や、例外的なケースが存在することは大前提だ。
しかし、集団の中央値や統計的な傾向として見れば、いぜんとして「差異」は大きい。
科学的に言えば、人間の基本スペックは「女」である。
そこにY染色体という異物が混ざることで、男という仕様に変化する。
胎児期にテストステロンが適切に供給されなければ、肉体は男でも脳のプログラムは女のまま出力される。
俗に「男の20%は女っぽく、女の10%は男っぽい」と言われるが、これは胎内でのホルモン環境による疫学的な事実だ。
とくに顕著なのは言語能力の差で、男性は言語を使うときに左脳しか使わないが、女性は左右両方の脳を使う。
そのため男性は左脳を痛めると言語障害になるが、女性は左右の前頭葉を破壊されないかぎり、しゃべりつづける。
男にとっての言葉は「事実の伝達と解決策の提示」だ。
女にとっての言葉は「人間関係の構築とプロセスの共有」だ。
男は一言もしゃべらず、何時間も並んで釣り糸を垂れることができる。
物音ひとつ立てずに獲物を待つ本能があるからだ。
男同士の沈黙は単なる正常運転だが、女同士の沈黙は人間関係の重大な危機を意味する。
女がしゃべる目的は「しゃべること」そのものであり、男は「結果と解決」を求める。
男女の会話で無用な摩擦を避ける最適解は単純だ。
男は解決策を提案するのをやめ、黙って話を聞けばいいのである。
長くなってしまったが、まとめよう。
男女は「同じ」ではない、ゆえに「違う」ことを前提に社会を組み立てるべきだ。
国語や数学の設問を男女の脳の違いに合わせて変更し、全国平均の数倍の成果を出している学校があるという。
違いを認めて最適化することこそが、本来の教育であり合理性だ。
くりかえすが、どちらが優れているとか、劣っているという話ではない。
ただ、明確に「違う」のだ。
情報処理の仕方、優先順位、行動様式。
何百万年かけて別々の方向に進化してきたふたつの脳を、ぴったり同じように扱えと強要するから、混乱と不必要な疲労が蓄積する。
「同じだ」という綺麗事を口ずさむのをやめ、根本的に「違う」という冷徹な事実を前提に置こう。
互いに生きやすくするための合理的なシステムは、その諦めの中からしか生まれない。