ヘイトを煽る報道が、東アジアにも散見される。

 中国ではひどいようだが、それに合わせる媒体は日本にもあった。

 

 熊本で地震が起こったころ──お見舞いはするが、それに乗じて日本の右翼が、などと語る中国の報道官。

 ……天災は見舞っておけばよくね? 右翼うんぬん言う必要ある?

 

 中国にとって日本の世論の優先順位が下がっている、という意味なのだが、なぜそうなっているのか、ちょっと考えたい。

 高市さんの発言で習近平さんがご立腹なので、部下がすべての忖度を稼働して反日に逃げ込む、という事象についてだ。

 

 考えはじめると、これが意外に根深い。

 ちょっと長くなりそうなので、中国の話に距離を置きたい方々はブラバをお勧めする。

 

 

 まず漠然と思ったのは、現在の中国が「朱子学」と相性がいいこと。

 南宋の時代に朱熹(朱子)がまとめた朱子学は、上下の秩序や大義名分を重んじる点に特徴がある。

 

 根本である儒教は、能力主義でエリートが国を支配するという体系の学問だ。

 かつては科挙に合格した人間が絶大な権力を握ったし、現在は共産党のエリートがそれを手にしている。

 

 儒教は、中国人にとっての宗教のようなもので、既存のフォーマットとして利用可能であった。

 日本が天皇制を利用しているのに、すこし似ている。

 

 

 他の宗教、たとえば唯一の神のまえでは全人類が平等、というような理屈は、東アジアには存在しない。

 中国人は儒教の時代から無神論であり、結果的に「すごい人間」(皇帝などの超越的な統治者)に治められるのが当然、というマインドが固定した。

 

 その精華である朱子学が生み出されたころ、日本人のうち「すごい神君」をもつ徳川さんちが、その都合のよさに気づいて、これを公式の学問(官学)として採用した。

 そうして中国的な価値観に染められていた殻を破ったのが、明治維新だった。

 

 中国は皇帝から民衆が一体化されていたが、日本は幕府と朝廷が並立する、いわば二重権力体制だった。

 その片方が朱子学を取り入れ、もう片方はそこに距離を置いた。

 

 日本にも中国にも、民主主義がすばらしいものだ、などという考え方はそもそもない。

 欽定憲法を発する以前の天皇も、民主主義がすばらしいなどと言ったことはない。

 

 明治維新が成立した最大の要因は「二重権力の隙間」を突いたからにすぎず、そのために利用されたのが「部分的な民主主義」だった。

 結果、日本は「選挙」という制度を取り入れ、すこしだけ「西側」諸国に近づいた。

 

 

 いっぽう権力闘争に「共産主義」を採用した中国共産党に、選挙はない。

 このへん言葉の問題がややこしいのだが、彼ら自身、自分たちは民主主義だと主張しており、地図にも「人民共和国」と書いている。

 

 もっとわかりやすい例は、おなじ共産主義(現地では主体思想)国の北朝鮮が、地図にまで「民主主義」を入れていること。

 その惨状については、みなさんご存じのとおりだ。

 

 しかし、選挙をしない民主主義とは、なんだろうか?

 すくなくとも日本人や他の多くの民主主義国家にとって「わかりやすい」形での選挙を、彼らはお断りしている。

 

 言い換えれば「わかりにくい選挙」をしている。

 ソ連や中国の歴史を調べる必要はない、その本質は日本共産党を見ればわかる。

 

 

 いわく、民主集中制だ。

 ウラジーミル・レーニンが提唱した、「共産主義政党や社会主義国家における組織原則」にもとづく。

 

 日本共産党のホームページには「徹底した民主主義による議論」と「決定事項の統一行動(中央集権)」を組み合わせた仕組みを指す、と書いてある。

 昨今そこで公選制を提起した人々は、ことごとく除名となった。

 

 新たな女性党首によれば、「発言者の姿勢に根本的な問題がある」らしい。

 正しいのは自分たちなので、必然的に相手がまちがっているわけだ。

 

 共産党で民主的に選ばれた「書記長さま」こそが、「歴史を板書する権利」を得る。

 権力の集中と、排除の理論──すべては組織《ゼーレ》のために。

 

 この構造を利用して生み出されたのがスターリンや毛沢東であったが、世界中にその小型のイミテーションは存在する。

 もちろん日本の「党首」たちも長期政権から院政を敷いて、権力の集中という共産主義らしい体制を護持しているのは、ご存じのとおりだ。

 

 

 形としては選挙をするので民主主義だが、彼らはその前段階で「立候補させない」という戦術をとる。

 党首の公選制が言語道断なのは、そのためだ。

 

 どこかで意見をまとめ、だれかに集中させる。

 ひとつの意見にみんなの意見が集中しているので正しい、というのが彼らの理屈だ。

 

 どこの国にも一定の割合で、そのほうがいいという人々が存在する。

 よって世界中に共産党は存在するわけだが、禁止されている国も多数ある。

 

 

 わかりやすかったのが昨今の「パワハラ問題」だ。

 しかし日本共産党にとって、それは「パワハラではない」という結論に落ち着いた。

 

 ゴリゴリの「共産主義者にとって」、ハラスメントのハードルはきわめて恣意的だ。

 歴史上、多くのジャイアンが採用してきた、「オレはいいけどオマエはダメ」である。

 

 集中民主主義で理想を目指す「党の未来のため」には、「党外の意見に流され」て「党員としての自覚」「主体性や誠実さを欠く」地方議員や党員は異分子だ。

 それを「除名」「総括する」のは「私たちの責務」となる。

 

 

 共産党がよく使う「無謬性」は、悪魔の言葉だ。

 未来の理想の社会を学び、完全な社会の道のりにあるわれわれが、まちがうわけがない、よって訂正する必要がない。

 

 歴史に悲惨の種をふりまいてきた言葉であり、現在進行形で汎用されている。

 毛沢東がそうであり、習近平もおなじ、偉大な国家主席がこうだと言えばそうなる。

 

 つぶすなと言われれば、つぶせない。

 習さんに怒られるので、失業率のデータを出さない。

 

 設定された目標に合わせて数字をドガチャカと、落語のやばい番頭のようなことを現実にやっている。

 結果、日本のバブルの何倍にもなる膨大な債務が、地方政府のうしろに隠されている。

 

 

 これは「科学」とは真逆の態度だ。

 科学は、世の中でわからないこと、謎を解き明かすことに、その真骨頂がある。

 

 現在のところこのようなデータが出ている、このような仮説によって説明されている、新しい事実や解釈が出てくる可能性はあるが、現在のところこれが確からしい。

 正しい科学者、学者たちが語るのは、現在のところの「確からしさ」だけだ。

 

 いっぽう共産党式「科学的発展観」によれば、その「教義」はまちがっていない、絶対的に正しいので従え、となる。

 いわゆる科学的社会主義者たちが使う論法は、残念ながら「ほぼ宗教」だ。

 

 うまくいっているときはいい。

 しかし歴史を顧みるまでもなく、その道のりは悲惨な失態にまみれている。

 

 

 ところで現在の中国、はたして「うまくいっている」だろうか?

 もし彼らが困っているのだとしたら、われわれはどう対処すべきか?

 

 たとえば崩壊したソ連を救ったのは、いろいろあったがもっぱら西側諸国だった(そのやり方はひどくて現在の火種にもなっているが)。

 なぜ助けたのか、それは彼らが「おなじキリスト教徒」であったからだ、と私はすくなからず信じている。

 

 ところで日本人は、中国人に対してどのような態度をとるだろうか?

 おなじ儒教を信じてはいないが、個人的には中国史に敬意を表しているので、その後継者たちをできるだけ助けたい気はしている。

 

 日本国はどうするのか?

 その災害に援助と共感を示す中華民国と手を取り合うのか、それとも冒頭のような態度を示す中華人民共和国か、結論を求められる日はいずれ来るだろう。