『おやすみオポチュニティ』を観た。

 ただひとつのことをやる映画だ。

 

 火星探査という目的のために人々の意識は集中し、その最先端にあるオポチュニティという探査車に結実する。

 唯一のミッションは、ロボットを「見守る」こと。

 

 もちろん指示は出すが、電波を飛ばして10分後から動き出すような遠隔操作。

 そんなん映画になるのかよ、というワンテーマをみごとに描き切って見せた。

 

 

 前回、ソリッドシチュエーションの良作について書いたが、よく似ている。

 追いかけてくるものからひたすら逃げる、追い詰められた状況をなんとか好転させる──そういう「シンプルな物語」をきちんと魅せることさえできれば、映画は成立するということだ。

 

 おなじように宇宙探査を描いた映画の悪い例が、即座に脳裏をよぎった。

 つくった博士の背景がどうの、関係者や家族のトラブルがどうの、無駄な尺稼ぎで埋め尽くされた映画、たとえば日本のハヤブ……いや、やめておこう。

 

 やはり「ひとつのことにどれだけ集中できるか」は重要だ。

 そういう「ジャンル」があっていい、とすら思う。

 

 

 ワンアイデアで描かれた物語には、おもしろいものが多い。

 映画にかぎらず、小説やゲームでも同様だ。

 

 球を撃ち返すだけ、悪魔を倒すだけ、最速でゴールに着くだけ。

 いまの写真一枚にも満たない容量のなかで、単調な8ビット音楽の名曲に彩られ、どれだけの名作ゲームが生み出されてきたか。

 

 すぐれた作品ほど「シンプル」という真理。

 クソみたいな肉付けをはじめた瞬間、それはしばしば「クソゲー」と堕す。

 

 逆に言えば、クソみたいな肉付けをした駄作を、市場が要求している。

 市場は「買い手」だけでは成立せず、そこに必ず「売り手」がいなければならない。

 

 業界に巣食う「売り手」、すなわちバイヤーやクリエイターたちの生計は、ひとことで言えば尺を稼いでニッチ(市場の隙間)を埋めることだ。

 彼らも生きているのだから、その現実もまた否定はできない。

 

 気になるのは、視聴する側に求められる「覚悟」と「リスク」が、正しく分散されているかだ。

 もしそれが、しばしば「やったもん勝ち」なのだとしたら、その構造には問題がある。

 

 

 だれも「駄作」など見たくない。

 だが市場は、それも含めて構成されている。

 

 広告担当の「詐欺」には、しばしば閉口させられた。

 駄作をあたかも良作であるかのように誤認させることが、彼らの仕事だ。

 

 売れている作品に勝手に「寄せる」のは、もっともリスクが低い手法だろう。

 てっきり名高いあの作品だと思って観たらまったくの別物でした、という残念な映画体験はよくある。

 

 そのコストを、だれかしらが支払わされている事実については、忘れないでほしい。

 世の中、クソ映画を愛でることに喜びを見いだしている人ばかりではない、というよりもそういう奇人はあくまで少数派なのだから。

 

 

 ここでしているのは、映画を「つまらなくしている」元凶の話だ。

 才能の枯渇からはじまり、生きるために量産しなければならない市場関係者の話まで、つなげてきた。

 

 最後にもっとも重要な「コンプライアンス」の話をしよう。

 あらかじめ言っておくが、尊敬する芸人の江頭さんも腐していたとおり、私も「コンプラがテンプラよりもきらい」だ。

 

 これが業界にいい影響を与えているのかどうか、疑問をもっている。

 バッドエンドの胸糞映画が、例としてわかりやすいだろうか。

 

 被害者が全員死んで、悪が栄えるヨーロッパ映画『胸騒ぎ』。

 これをハリウッドがリメイクすると、『スピーク・ノー・イーブル 異常な家族』という、勧善懲悪映画になる。

 

 悪は栄えず、女性は被害者で、子どもは救いを求め、難民は犯罪者ではなく、悪を殺戮するための武装は正義で、主人公サイドは全員生還する。

 作品のコンセプト云々は関係ない、ただハリウッドが「やるべきことをやれ」ば、こうなるという典型だ。

 

 

 アメリカの言論は法律で規制されないが、市場によって強く縛られる。

 ハリウッドのルール、それはおおむねキャンセル・カルチャーに帰結する。

 

 あの映画は差別的だ、宗教的によろしくない、などと指弾されれば市場で生きていけない(キャンセルされる)。

 必然的に遵守が避けられなくなる、ポリティカル・コレクトネス。

 

 ディズニーには強めにこの病理が刻まれており、最近ではさすがに変だろとみんなに気づかせるような『白雪姫』もつくられた。

 それ以外にも、続編が大コケしたパターンの半分はポリコレのせいだ、と私は思っている。

 

 もちろん人種や性別や性的指向で差別されるべきではない、という前提を否定するつもりはない。

 問題は、アメリカでは逆に、その「属性が役割を決定してしまう」ことだ。

 

 さっき例に出したリメイク映画なら、キャンセルリスクを避けつつ、勧善懲悪という形に調整し、無理やりハッピーエンドにもっていく。

 考えてみれば、私が最初に名作認定した映画『屋根裏部屋の花たち』も、原作を改変してわりとハッピーエンドに変えられていた。

 

 そのほうがおもしろくなるなら、よろしい、認めよう。

 だが差別の撤廃を掲げ、逆方向に印象操作するなら、それは正しくない。

 

 

 その意味で俯瞰的な映画が、『ドント・ウォーリー』あたりだろうか。

 主人公は障碍者だが、自らを含めて障碍者や性的少数者、黒人などを「嘲笑の対象」として置いている。

 

 障害者や弱者を「差別しない」ということは、彼らを「聖域に置かない」ことと同義だ、という考え方がある。

 私にとっては、しごくまっとうな考え方なのだが、世間では「ブラックな漫画」と評価されているようだ。

 

 ある特定の人は笑いの対象にしてはならない、という発想こそが差別である。

 健常者や権力者を笑いの対象にするように、障害者や弱者も同じように笑う──それがあたりまえの自然な姿ではないか?

 

 人々を「笑っていい対象」と「笑ってはいけない対象」に分けることは、かつて白人や特定宗教が用いた選民思想のロジックと、どう違うのか?

 正しいのは自分たちなのでしたがえ、という意識高い系の傲慢ではないのか?

 

 右手で人殺しをしたのは悪だったので、左手でやることにした。

 世界にそういう景色が広がりはじめている気がして、ひどく気持ちがわるい。

 

 

 だれのことも傷つけず、すべての属性に配慮し、道徳的に完璧なチェックリストを満たした物語。

 気がつけば、あたり一面、そういうコンテンツに満ちている。

 

 ……お気づきだろうか。

 これこそまさに、現在の生成AIが最も得意とする「安全で無難な出力」そのものだ。

 

 ハリウッドの賢明なクリエイターたちは、キャンセルカルチャーに怯えるあまり、自らの手で「AIが書いたような完璧なテンプレ映画」を量産するマシーンへと成り下がった。

 もはやそこに、不完全な人間が人間のために作った「毒」も「純粋な情熱」もない。

 

 

 いったい、誰がために映画は在るのか。

 昔好きだったゲームから「あなたは対象ではありません」とキャンセルされるように、私たちはもう主要なターゲット層から弾かれてしまっているのか。

 

 結局、コンプライアンスという名のアルゴリズムに最適化された映画を観て喜ぶのは、馴致された「言いなり」の人々だけになるのではないか。

 そのとき私の寿命はとうに尽きていて、世界は「人間ではないもの」が考えたルールによってまわっている……そんな気がする。

 

 そしていずれ、それらを見守るのは「AI」や「ロボット」だけになるのかもしれない。

 オポチュニティのような純粋な探査車に、くだらない忖度映画を見せるのは、すこしばかり申し訳ない気がするが……。