「#」という記号を、あなたはなんと呼ぶだろうか。

 われわれの世代はシャープと言うが、若い世代ならハッシュタグだろう。

 

 さらに古い世代なら?

 井桁かなあ、と想像する。

 

 同じ形を見ているはずなのに、呼び方がちがう。

 呼び方がちがうということは、思い出している世界がちがうのだろう。

 

 若い世代にとっての「#」は、言葉を社会へ放流するための記号らしい。

 #旅行 #ランチ #猫のいる暮らし #推し活

 

 言葉の前に「#」を置くだけで、それはただの独り言ではなくなる。

 検索され、分類され、拡散され、同じ関心をもつだれかに届く可能性が開く。

 

 ハッシュタグとは、現代の情報空間における水路のようなものだ。

 言葉を流し込み、見知らぬ誰かの画面へ届けるための溝である。

 

 

 では、われわれの世代にとっての「#」は、なんだったのか。

 目のつけどころがシャープかどうかはともかく、それは「押すもの」だ。

 

 厳密にいえば音楽記号のシャープ「♯」と、電話機などにある「#」は同じではないが、もちろんそんなことはどうでもいい。

 事実、自動音声は「最後にシャープを押してください」と言った。

 

 われわれにとって「#」は、読むものではなく、触れるものだった。

 番号を入力し、最後にシャープを押すと、機械がこちらの意思を受け取って動いた。

 

 若い世代のハッシュタグが「つながる記号」だとすれば、われわれのシャープは「命令を確定する記号」だ。

 つまりシャープとは、人間が機械に向かって「これで確定だ」と告げるための小さな槌だった。

 

 

 さらに古い世代にとっては、どう見えるだろう?

 20世紀前半を生きた祖父母世代の目に、それはおそらく「紋」ではないだろうか。

 

 住友井桁、丸に井桁三、井桁紋、井筒紋──。

 そうした形は、家紋にあり、商家の印にあり、暖簾にあり、提灯にあり、墓石にあり、財閥の社章にあった。

 

 住友の井桁は、商いの歴史を背負った印だ。

 三井の「丸に井桁三」も、越後屋から財閥へ続く商家の記号である。

 

 徳川の重臣、紀伊、尾張と並ぶ「紀尾井町」の井、井伊家を舞台にした時代小説などもいくつか思い浮かぶ。

 幾何学的な「井桁紋」は、昨今の戦国ゲーム世代のほうが、むしろ馴染みかもしれない。

 

 これを戦場の旗印として恐れられた「井伊の赤鬼」にはじまる「赤備え」。

 歴史好きにはたまらないはずだ。

 

 それは、家であり、店であり、墓であり、紋であり、企業であり、土地に根を張った信用の形だった。

 いまの若い世代が「#」に情報の流れを見、われわれが「#」に機械操作を見るように、祖父母世代はそこに家筋や商売や土地の記憶を見たのではないか。

 

 

 せっかく掘ったので、もう一段階、歴史をたどってみよう。

 家紋を刻んだ暖簾をくぐった奥に、私は「井戸」を見つけた。

 

 井桁はもともと、井戸の上に組まれた木枠であった。

 水を得るための穴、井戸。

 

 人類は水なしには生きられない。

 川のそばに住み、泉を探し、地下水を掘り当て、そこに木枠を組んだ。

 

 その井戸の縁を支える形が、井桁である。

 井桁の底にたゆとうのは、人の命を支えるもの。

 

 

 さて、物語はつながった。

 人間の生活は、まず水を得ることからはじまる。

 

 水がなければ集落はできないし、集落がなければ家もない、家がなければ家紋もない、商いも、財閥も、電話も、SNSも、そのずっと手前に水がある。

 そう考えると、「#」という記号は奇妙な地層を持っている。

 

 最上層のハッシュタグは、情報を拡散するための記号。

 その下のシャープは、機械に命令を確定するための記号。

 

 さらに下には家紋、店、信用、由緒を示すための記号がある。

 そして最下層には、井戸──人類が水を得るために作った、生活の原点があった。

 

 記号は変わっていない。

 変わったのは、人間がその記号をどこで見たかである。

 

 画面のなかにはハッシュタグ、電話機にはシャープ、紋付きや暖簾には井桁紋、そして地面には井戸。

 われわれは同じ「#」を見ているようで、じつは同じものを見ていない。

 

 若い世代は情報の入口、われわれは機械のボタン、祖父母世代は家や商いの印、さらに古い人間の記憶は水を汲む場所へ、回帰する。

 世代とは、価値観の違いである前に、なにを見てなにを思い出すかのちがいなのだろう。

 

 

 「#」という小さな記号の底にある井戸から、われわれは水を汲み、家を建て、商売をはじめ、機械をつくり、情報を流すようになった。

 水は循環する。

 

 私たちがいま飲む一杯の水のなかには、かつてクレオパトラが飲んだワインの水分子が、いくつか紛れ込んでいる──という雑学ネタをご存じの方もいるだろう。

 もちろんここで厳密な計算をするつもりはないが、水が人間の時間を超えて循環し、時代から時代へ渡っていくことはたしかである。

 

 水は、王にも奴隷にも、商人にも兵士にも、詩人にも農民にも入り込んできた。

 同じ分子が、身体から身体へ、都市から都市へ、文明から文明へと渡っていく。

 

 血筋、思想、趣味嗜好、さまざまな線でつながる人類の基盤的なところで、水によってもつながっている。

 

 現代、私たちは、そこに「情報」を加えた。

 水を汲み上げる井桁の入り口は、言葉を汲み上げる入口ハッシュタグになった。

 

 水が人間の身体をめぐってきたように、情報は人間の意識をめぐっていく。

 水を求めて井戸を掘った人類は、いま、言葉を求めて情報の井戸を掘っている。

 

 

 この文章を書くにあたって、私はChatGPTに調査を頼み、言葉を整えた。

 考えてみればAIもまた、すでにこの循環のなかにいる。

 

 データセンターが膨大な「水」を消費しているというアナロジーは、ある意味でとても示唆的だ。

 水が人間の身体をめぐるように、情報は人間と機械のあいだをめぐる。

 

 「#」という小さな記号の底には、井戸がある。

 その井戸から甘露を汲むか、それとも苦い水が湧くかは、あなたしだいなのかもしれない。