「〇〇死刑囚に、これからどういうふうに生きていってもらいたいと思いますか?」
ある番組で、取材者が被害者の遺族に訊いていた。
不思議な質問だな、と思った。
「死刑囚」にどう「生きて」もらいたいか?
たしかに全人類が「死ぬまでは生きている」のだから、「これから」どう生きるかという質問は成立する。
が、他人の未来を奪って死刑囚となった人間に対して、その未来を語ることに若干の違和感をおぼえた。
ちなみにこの遺族は、「きちんと反省してもらいたい」的なことを答えていた。
模範的な回答だとは思うが、私ならこう問い返しただろう。
「被害者の生きていきたい気持ちは、どうなりましたか?
そういうふうに死んでいくべきです」
反省とか贖罪とか悔恨とか赦しとか、信じたい人間はもちろん信じればいいが、信じたくない人間にまで同じように考えろとは、あまり要求しないほうがいい。
個々人がどう考えるかは、それぞれの自由であるべきだ。
しかし世の中には、私がこう考えるんだから、おまえもそう考えろ、と要求する人々が、けっこうよくいる。
そういう性質によって「いいこと」がないとは言わないが、しばしば「最悪」のことを引き起こしてきた事実を、けっして忘れてはならない。
自分の正義を絶対化し、他者にも従わせようとする人間の性質は、多くの歴史的悲劇にもつながってきた。
相手も自分と同じように考える、という前提で物事を運ぼうとしたときに引き起こされるエラーは、意外と身近なところにある。
問題の取材者は、遺族に対してこう質問すべきだった。
「〇〇死刑囚に対して、いま、どのような感情を持っていますか?」
これなら私も引っかからず、番組は日常のなかに消費されたことだろう。
言い換えれば、彼の変な質問のおかげでこの記事が書けた。
要するに「主語」の置き所をまちがっているのだ。
冒頭の質問に違和感があるのは、問いの主語が被害者ではなく加害者になっているからだった。
仮に、この取材者が死刑廃止論者であったとしよう。
もちろんそれは彼の自由だし、死刑廃止論者が集まるエコーチェンバーで自説を語るなら、勝手にすればいい。
しかしそのような主張は彼の生活のなかでやればいいことであって、取材という仕事の現場にまで持ち込むべきではない。
中立ぶった取材者が被害者の遺族に向ける言葉としては、この質問は明確にまちがっている。
「反省してほしいですか?」ならまだわかる。
「謝罪を受け止められますか?」も、きついが質問としては成立する。
しかし「どういうふうに生きていってもらいたいか」は、加害者の人生設計に遺族を参加させてしまっている時点で、だいぶまずい。
遺族の立場からすれば、「なぜ私が被害者の未来を奪った人間の未来について語らなければならないのか」という違和感につながって当然だ。
今回のように遺族が「反省してほしい」と答えれば、世間的には落ち着いたコメントになる。
しかし私のように「死んでほしい」とでも答えれば、遺族の怒りだけが切り取られ、場合によっては「報復感情」として処理される。
そう、この質問のもっとも醜悪な点は、遺族を「道徳的に試す」構造を持っていることなのだ。
「やったことは必ずやり返されるべき」という思想で生きている私が、直感的にムカついたのは当然だった。
さらに根深いと感じるのは、この取材者が流れるような質問のなかで、ごく自然に「加害者の未来を中心に置い」ていたことだ。
本来、「遺族の感情と沈黙の権利を中心に置く」べきなのに、彼はたぶんそのことに気づいてすらいない。
こういう記者は、意外と多いような気がする。
彼らにとって「遺族」は、ただの飯の種であり、うまいコメントを引き出すための道具にすぎないのだろう。
記者に思想を持つなと言うつもりはないのだが、だったら「中立のふり」をしてはいけない。
私は死刑廃止論者なので、死刑囚の立場に立って取材を進めます、と番組のどこかの時点で表明すべきだ。
もしそうでないなら、漠然と「死刑囚にどう生きてほしいか」などと問うてはいけなかった。
記者も含め、自分が思うほどには、その考えは正しくも普遍的でもないかもしれないという疑いを、つねに心のどこかに置いてほしい。
すくなくとも取材者が遺族に求めるべきは、「赦しの物語」であってはならない。
語れる範囲で語ってもらうこと──それが他者の痛みに触れる人間がもつべき、最低限の礼儀だと思う。