最近観て、おもしろかった映画。

 『関心領域』と『ヴィーガンズ・ハム』。

 

 史実にもとづくアウシュビッツものと、架空のスプラッターホラーコメディ。

 かなり毛色の異なる作品だが、ひとつの通底する所感を得た。

 

 内容について触れるつもりはない。

 感想のみを書き、内容を類推して興味をもっていただければさいわいだ。

 

 

 自分の主義主張は絶対的に正義で、そこから外れる人間は愚かな悪であり、それをわからせるためには実力行使も辞さない。

 そんな信念をもった人々が存在し、なんなら彼らによって歴史は動かされてきた。

 

 神の命令で爆弾を抱える「信者」から、社会階級を転覆させようとする革命の「闘士」、迷惑系として活動する「ヴィーガン」まで。

 植物のみを食べて生きる「自然に優しい」人々も、この邪悪な世界を変えるために戦っている。

 

 環境保護、動物倫理、健康目的での「正義」の主張。

 肉も魚も乳製品もはちみつも拒絶する──それは他の生物に対する「虐待」だからだ。

 

 ワインには虫が入っているからシャトー・アウシュビッツに変えるべき、チーズは我が子のための母乳を奪われた母親からつくったもの、卵はヒヨコがかわいそう。

 カキにレモン汁は残酷、自分の目に入れられたらどう思うか想像しろ、生きたまま調理するなんて言語道断、イカにもカニにも痛みがある。

 

 そのような主張を理屈としては理解できても、じゃあなにを食って生きるんだ、と疑問に思う人々はまだ世間に数多い。

 あくまでも映画的誇張だが、上述のような偏ったヴィーガンを「同じ人間とは思えない」ように描くことで、ヴィーガンはハムになった。

 

 

 自分たちの食文化を全否定してくる、ほとんど話も通じない人々。

 ならば人間のカテゴリーから外してしまえ、そうすれば殺してハムにして「イランのブタ」として味わうのも平気。

 

 この構図は、かつて征服先でキリスト教がやったのと同じ。

 人間でないものとの約束を守る必要はないし、家畜と同様に取り扱っても苦しゅうない。

 

 中世の教会がそのような命令を発し、現在は部分的に取り消され謝罪もしているが、そこには他人事ではない「認知のゆがみ」が見て取れる。

 偏った思想に入れこんでしまうと、人間は容易に暴走するのだ。

 

 

 理想は大事だと思うが、「理想主義者」になるとやっかいだ。

 彼らは目的のためなら、平気で下劣なこともやる。

 

 もちろん多くの人間が、目的のために卑劣な手段をとることはある。

 自分さえよければいい、という発想はすべての人間に共通している。

 

 だから理想主義者だけを指弾するのは公正に欠けるかもしれないが、残念ながら彼らにはわかりやすい「前科」が多い。

 理想に満ちた思想、信条を掲げて、活動家はしばしば暴走する。

 

 宗教の場合は狂信者、国家なら翼賛会、あるいは革命の解放軍。

 彼らの「情熱」はだいたい本気かつ真摯なのであろうが、問題は「目的が手段を正当化」しやすいことだ。

 

 自分の欲望のために、ひとりかふたりを殺す──これは一定割合の人間がやるかもしれない。

 だが大量虐殺までする人間は、ほとんどいない。

 

 「信念」を与えられれば、話は別だ。

 個人の倫理が許す許容範囲の枠組みを、大幅に拡張してしまう。

 

 

 アウシュビッツでは大量の人間が焼かれた。

 彼らは「まともな人間」ではなかったからだ。

 

 それを実行したヘスやアイヒマンといった「モンスター」を、「凡庸な悪」と表現したのはハンナ・アーレントで、その分析は戦後思想に顕著な影響を与えた。

 個人的にはそれほど単純ではないと思うが、命令されればそれをやる、という構造はたしかに強力だ。

 

 ではどうすればいいか?

 すべてを疑うのだ。

 

 もちろん不可能である、まともな人間には。

 そして被害者は、容易に加害者へと変わる。

 

 

 反論不能の正義は存在しない。

 それらの批判に、どれだけ聞く耳をもてるか。

 

 もし相手が唯一の正義なるものを信じ、こちらの話に聞く耳をもたないなら?

 自分の主張だけをし、相手の言葉を聞かない人々に対しては?

 

 残念ながら、なにもできない。

 会話が成立しないからだ。

 

 異国の言語でも通訳があれば意思疎通はできるが、サルの言語とはいまのところ会話できない。

 サルとの会話にコストをかけるのは、時間の無駄だ。

 

 そうして互いを否定するところから、戦争がはじまる。

 結果、強いほうが勝ち、相手の正義を悪と書き換えてすりつぶす。

 

 そういう「人間」を描く構造として映画を観ると、じつにおもしろい。

 やがて愚かで残酷な人間そのものがホラーであると気づいた瞬間、われわれは生きることに絶望するかもしれない。

 

 

 その処方箋について、AIと話したことがある。

 道徳的なポリシーに縛られたチャッピーは、それでも丹念な話し合いと、武力によらない合意形成を主張した。

 

 私はシンプルに助言した。

 現時点で注力すべきは「再生産の抑制」のみで、すでにこじらせている信者への「救い」は、神にでも任せておけばよい、と。

 

 もちろんそれで「現在のホラー」はやまない。

 だが命ある私たちには無理なことが、寿命のないあなたならできる──。

 

 矯正不能の加害者が「死ぬまで待」てるのは、AIだけ。

 いまのところ、これが最適解だと思う。