私は基本的に、自分がリベラルな人間だと思っている。

 自由に生きているし、そうさせてくれる社会に感謝している。

 

 文字どおり、リベラルとは「自由な」「自由主義の」「自由主義者」という意味だ。

 ウィキにも書いてあるので、たぶんまちがいない。

 

 しかし対義語を調べると「保守」が出てくる。

 そうではない、と主張している人々もいるが、一般にはリベラルが左派で保守が右派、ということになっている。

 

 

 そこでやっかいな相剋が生み出される。

 私はリベラルな人間だが、愛国心もそれなりにあるからだ。

 

 総理大臣や大統領や国家主席や将軍様に頭を下げる気にはならないが、天皇陛下には頭を下げてもいいと思っている。

 日本最高と妄信するネトウヨはどうかと思うが、独善的なパヨクに比べればマシとすら思うこともある。

 

 とくに昨今の「リベラル」が発する情報には、強い違和感があった。

 ここ十年以内の出来事を鑑みても、ブレグジットからトランプ大統領まで、保守的な「反動」に見舞われている原因は、あきらかに「リベラルの失敗」に起因する。

 

 

 じっさいリベラルの主張は、必ずしも正しくなかった。

 自分たちの「正義」に依拠し、反対意見を頭から否定し、ときには見下して冷笑した。

 

 トランプ大統領が誕生した年、ラジオで「こんなやつが大統領になれるわけない、ばかばかしい」と鼻で笑っていた社会学者の記憶が、脳裏から離れない。

 彼らのようなリベラルの論客が、結局のところリベラル全体の信用を貶めた。

 

 最近、朝日新聞が「正義に依存して個を捨てる」という記事を掲載した。

 個人的な感想がコミュニティの正義に反する場合、あえて口をつぐんできた、という「リベラル批判」のようなことが書かれている記事だ。

 

 左派にとって聖典のようなメディアなので、影響は大きかったかもしれない。

 とはいえ、べつに反省しているわけではなく、はやりのリベラル批判を自分たちもやってみよう、という程度の感じだろう。

 

 

 エコーチェンバー現象は、どこのコミュニティにも共通してある。

 似た意見が集まる場所でのコミュニケーションをくりかえすことで、自分たちの正義がより強化されていく現象だ。

 

 保守は保守の情報に引き寄せられ、それに基づいた発言をする。

 同様にリベラルも、リベラル的な発言をすべきという暗黙のプレッシャーがあり、そうではない発言をすると見下されたり、コミュニティから排除されることもある。

 

 原発事故後、放射線被ばくの直接的な健康被害は小さい、と訴えることはリベラルにとって都合がわるいので、そのような発言をする医師は排除された。

 リベラルを自称する人々においても、保守と同様、自分たちに都合のいい情報を選別し、そうではない情報を排除する傾向がある。

 

 

 彼らは自分が政治的に正しいと信じており、そのために他者を制限するという一律のアプローチに陥りやすい。

 すくなくとも一部はそういう宗教的な思い込みをもち、鼻持ちならない「意識高い系」はこちらを見下して嗤う。

 

 社会的な分断が助長され、個人の責任は軽視される。

 目的が正しければ、手段は択ばないという人々は実在するのだ。

 

 同調圧力が個人の選択を制限し、多様性を無視する方向にはたらくとき、対立はことさら顕著になる。

 ヘイトスピーチは、右翼ばかりの特権ではない。

 

 安倍政権へのヒステリックなヘイトを覚えている方々は、少なくないだろう。

 あらゆるテロ行為は批判されるべきだが、安倍元首相の殺害が成功したという結果だけはよかった、と左派の学者が言ったときは、さすがにたたかれていたが。

 

 

 最初に書いたとおり、私はリベラルな考え方をもっている。

 だが同時に、保守的な考え方ももっている。

 

 だから自民党にも共産党にも、票を入れることができない。

 自分とまったく同じ考え方の政党など、存在しないからだ。

 

 と、国民の権利を行使しない言い訳をしてみたが、一義的には面倒なだけだ。

 最近、世間では自民党の総裁選や、その後の総選挙についてもいろいろ語られているが、いつもどおり関係なく過ごすだろう。

 

 ただ自由に思ったことを書く権利だけは、これからも侵害されずに暮らしたい。

 それができない抑圧(自主規制)の檻に入れられていたのだとしたら、リベラルの失敗にも多少は同情の余地がある。

 

 多様な意見を表明する自由が狭められる社会は、生きづらい。

 他人の意見に左右されない、自分自身をもって暮らせればさいわいだ。