最近、脳の具合がおかしい。
 生命の危険を感じる瞬間がないこともない、とまで言うと大げさだが。

 ひとまず人生をふりかえっておいてもいいかな、と感じた。
 こういう変なおっさんがいた、という記録を残しておいても害にはなるまい。


 ──そろそろ天命を知っていい年齢、10年ずつ区切って分析するとわかりやすい。
 生まれてから10歳までは、どこにでもいるアホなガキだった。

 10代になると、こじらせはじめた実感がある。
 表現者になりたいという夢をもったのが、このあたりだ。

 20代、とりあえず10年、小説を書いてみた。
 雑誌に名前が載る程度の実績で、結局受賞はできず、筆を折った。

 30代、無茶をした。
 とにかく働き、遊び、タネ銭を稼ぎ、トレーダーをやった。

 30代後半から40代にかけて、脳の具合がおかしくなった。
 めまいがひどく、ときおりパニックの発作が起こった。

 メニエール病とかうつ病とかも考えたが、その手の「病気」ではないと結論している。
 完全に無関係ではないかもしれないが、もっぱらストレスの問題だ。

 日々、非常識な金額の利益と損失にさらされつづけたせい、と考えるとつじつまが合う。
 このときの貯蓄で現在生きているので、簡単に当時を否定はできないが、あの生活には二度ともどりたくない。


 リハビリがてら、小説を再開した。
 創造的な作業のおかげで、なんとか平静をとりもどしたかのようにみえる。

 小説についてはいまも、一次二次は抜けるがしょせんその程度、という中途半端な能力。
 むしろ下手に受賞とかしないほうがいいな、と思うようになってきた。

 これは負け惜しみではない。
 もはやそういう段階は、とっくに通り過ぎた。


 創造的作業そのものがリハビリなので、作品自体は書く。
 書いたものは一応、投稿する。

 昔は期待があったが、いまは逆の意味の不安が強い。
 投稿したその日から、微妙に気分がわるくなるのだ。

 病膏肓に入る、とはこのことだろう。
 自分を見つけてもらいたくて投稿するくせに、見つかってしまうことに恐怖をおぼえる。

 途中経過に下手に名前が出ると、不安が増す。
 最終結果が出るまで、雑誌もネットも見ないようになった。

 落選が決定的になれば、また安定して暮らせるようになる。
 「静かに暮らしたい」という本音が、精神の根底に巣食っているせいだと思う。


 大金を動かしていたときと、ある程度有名な表現者になってしまうことは、似ている気がする。
 いずれにしても「静かに暮らせなくなる」からだ。

 だから現在、正解の人生を生きている、と思っている。
 田舎で小さな仕事をして、孤独に生きることは、私にとって正しい。

 ちなみに落選作や応募に適さない作品は、ネット用に直しつつ順次、公開している。
 このブログと同じようなもので、評価はあまり負担にならない。

 そもそも、ほとんど読まれないという現実に気づいて以来、公開自体は気楽になった。
 いつかAIあたりに見つけてもらえればいいかな、と思っている。


 ──そんな私に気を使ってくれたのだろうか、妹が投資の話をもってきた。
 経営している会社で利益が出ているので、それを投資にまわして増やしたい、ということのようだ。

 たしかに、低能な私がまともにできるのは、いまやカネ転がしくらいのものになった。
 そのせいで心を病んだという過去さえなければ、喜んで乗っただろう。

 マーケットの本質は一応、ある程度、理解はしている。
 FP2級もとって、マネーという冷酷な現実に向き合ってきた自覚もある。

 だが孤独に生きるのに、それほどお金はいらない。
 いまは、いかにミニマムに生きるかを追求するほうが、むしろ楽しくなってきた。

 だからマネーの世界にもどるのは、正直いやだな、と思っている。
 そして、そんな自分を気持ちわるい、とも思う。


 オファーをくれるというのは、チャンスをくれるということだ。
 それを蹴るというのは、忘恩の徒のそしりを免れないのではないか。

 生まれてこの方、自分はなにをやってきたか。
 そう問われたときに、胸を張れなくなりはしないか。

 それでも、いやな仕事をする必要はないと、もうひとりの自分は言う。
 小さな仕事をコツコツやっていればいいじゃないか、という意見も正しいはずだ。

 妙なことをはじめたら、また混乱して、発狂して、ひとに迷惑をかけるかもしれない。
 前述したとおり、私の脳はポンコツなのだ。


 どんなに養生していても、たまに暴走することがある。
 なぜか食べ物を食べられなくなって、体重が10キロ減った。

 ときおり全身を冷水に漬けたくなるような、やむにやまれぬ衝動に駆られる。
 首筋と脇に凍らせたペットボトルを当て、急速に脳の血流を冷やすという方法で機能を低下させ、パニックをやり過ごすという処世術はいまのところ有効だ。

 同居人がいないので、だれにも迷惑をかけずに済んでいるが、いれば心配をかけてしまうだろう。
 こんな危なっかしいおっさんは、たぶん目立ってはいけない。


 それほど大きな金額を動かさなければ、だいじょうぶではないか、という気もする。
 妹も、負担のない方法を提案してくれている。

 感謝すべきなのだ、私は。
 こんなポンコツでも、使い道があるんだよと教えてくれている。

 目立つ価値のない役立たずのおっさんでも、生きていていいのだと甘やかしてくれる。
 ありがたいことだ。

 生きていることが福音とはかぎらないと、もうひとりの自分が絶叫していても。
 こうして文章を書けるのは、おそらく幸せなのだ。


 書きたいことは、じつはまだある。
 必要な情報を集め、低スペックな脳のなかで混ぜ合わせているときは、それなりに充実感があったりもする。

 社会や歴史や科学を学んで、それを作品内で表現できることが楽しい。
 だれにも迷惑をかけず、なにかを残している気になれる。

 そこまではいい。
 たしかに迷惑はかけていない。

 が、結局のところ役に立ってもいない。
 それでいい、プラマイゼロなら御の字だ、と自分を甘やかして生きている。


 天才的な頭脳で、社会の役に立っている偉人はいる。
 しかし私にその能力がないことは、20代までにたっぷりと思い知った。

 一方、世の中に迷惑をかけて、盛大なマイナスをさらしている犯罪者もいる。
 それに比べればマシだろう、という考えはスポイルなのか?

 人間には、できることとできないことがある。
 ……そのできることを、どれだけやっているか?

 為替やオプション取引には、リスクがある。
 やるとしたら準備と勉強が必要だ。

 踏み込むかどうか。
 もうすこし考えさせていただきたい。


 残りの人生の長さはわからない。
 それほど長くはないと思っているが、もしかしたら生き恥をさらす憂き目に陥ることもあるかもしれない。

 私は、どう生きるか。
 映画に答えがあれば助かるが、たぶんない。

 ともかく、死ぬまで生きるだけ、それでいいんじゃないかな。
 そんなことを思いながら、ことし最後のエントリーを終えたい。

 読んでいただいてありがとうございました。
 来年もよろしくお願いします。