寒さが身に染みる、はじめての田舎の冬。

 室内気温が2桁に達した日は、ついぞない。

 

 それでも11月末が誕生日の私は、「これから寒くなるぞ」という真っただ中に生まれただけあって(?)、寒さには強い。

 その分、暑さには弱いのだが、おかげさまで低温環境にはほどよく適応している。

 

 身体は適応しているのだが、脳の調子があまりよくない。

 このまま凍死したら楽なのかな、などと考えないこともないが、まだ死にません。

 

 死ぬ死ぬ言ってるやつが死んだためしがない、というマーフィー的な法則にはうなずける部分が多いので、私は常に何度でも言っておく。

 まだ死にません。

 

 

 脳は、意外にごまかせる。

 アウト・オブ・コントロールになる恐怖はあるが、薬に頼るまでもなく、ある程度は経験とテクニックで制御可能だ。

 

 私は、ウソつきが大嫌いである。

 自分が言ったことは守るし、他人にも言ったことは守ってほしい。

 

 一方、他人を巻き込まないウソ。

 すなわち、自分をだます──これは、いいウソだと考える。

 

 自己暗示に近いが、被害者もいないし、いたとしても自分だけなのだから、だれにも文句を言われる筋合いはない。

 そんなわけで、私はちょいちょい自分の脳をだます。

 

 私は問題ない、つらくない、死にたくない。

 最初はウソでも、言い聞かせているうちにホントになったりする。

 

 もちろん本物の「波」がやってきたら、そんなチャチな防壁は吹き飛んでしまうが。

 薬に頼る前に、できることがあれば、やっておいたほうがよい。

 

 

 さて、いつものように映画を見ていて、こんなシーンがあった。

 10歳前後の少女が、小さな弟に罵詈雑言を浴びせている。

 

 ブチ切れた少年が、ぬいぐるみをぶん投げる。

 瞬間、開いたドアから母親。

 

 驚くほどの速度でモードを切り替え、泣き叫ぶ少女。

「弟がいろんなもの投げてくるの、痛いよママー、うわーん!」

 

 おかんに怒鳴られる弟。

 口がうまくないので、ろくに反論できない。

 

 早く寝なさいと言って母親の姿が消えると、にやりと笑って舌を出す姉。

 幼少期にはありがちなシーンで、不自然さはない。

 

 ありふれた事象。

 ウソ泣き。

 

 いろいろ許せないことの多い世の中だが、私にとってシンプルに許せないこと。

 それが「ウソ泣き」だ。

 

 映画では少女だったが、幼少時であれば性別は関係ないかもしれない。

 ともかく、これをやった時点で、その子には強力な教育的指導が必要と考える。

 

 

 まず、「泣く」という行為そのものに、近づきたくない。

 なぜ嫌なのかを端的に言えば、理屈が通じない、話にならないからだ。

 

 泣く子と地頭には勝てぬ。

 古来言われる通り、傍若無人な悪代官に等しいもの、それが「泣く子」なのだ。

 

 とはいえ、泣くこと自体をディスっているわけではない。

 私自身、大声で泣きたくなるときもある。

 

 そんなときは、閉じこもる。

 部屋のドアをぴったりと閉じ、心行くまで涙を流す。

 

 自分をだますのが許容範囲である以上、泣き叫ぶ自分を見ているのが自分だけなら、許してやってもよい。

 問題は、それを「対人関係に持ち込む」ことだ。

 

 ウソ泣きは、最初から他者を巻き込むことを前提として、しかも詐欺的な狡知を運用の核心に置く。

 ひとことで言えば、こずるい。

 

 他人を巻き込むことが前提の詐欺行為、あるいは単なるストレス解消。

 そう、平気でウソ泣きができる人間は、ただのストレス解消で人をだませるタイプなのだ。

 

 こんな人間と、まともに付き合えるだろうか?

 いや、無理だ。

 

 

 信頼は、あらゆる人間関係の基本だ。

 ウソは、それを破壊する行為だ。

 

 ウソ泣きは、さらに凶悪だ。

 相手の良識、善意を利用する。

 

 同じ盗みでも、あくどく儲けている人から盗むのと、赤い羽根の募金箱から盗むくらい、大きなちがいだ。

 ウソとウソ泣きは、単独殺人と連続殺人鬼くらい異なるのだ。

 

 行き過ぎたウソつきは、病気と診断されることもある。

 一般的な「ウソ」まで「病気」とニアイコールだとは思わないが、その萌芽が見て取れる状況はありうる。

 

 どこまでが「性格」で、どこからが「病気」になるか。

 その線引きは、常に問題視すべきだろう。

 

 とくに「法廷」では、精神疾患の取り扱いが非常に重要になってくる。

 多くの「物語」で取り上げられている通り──。

 

 

 ウソつきが、その責任から逃れるために便利な「手段」があったとしたら、どうだろう。

 彼らは喜んで、その「手段」に飛びつくのではないだろうか。

 

 ウソをついたのは、私じゃありません。

 覚えていません、やったのは別の人格です、私は悪くない……。

 

 多くの人が、どこかで見覚えのある「物語」ではないだろうか?

 「書き手」でもある私が、自戒してやまない手法、すなわち「多重人格」だ。

 

 ひとりの人間に複数の人格が現れる、という「物語」のフォーマットは多用されている。

 あまりにも便利で、ライターはもちろん医者も患者も大喜びの「症状」、それが多重人格だ。

 

 病気が増えれば基本的に医者は儲かる、患者は患者で薬がもらえるし、なにより話相手をしてもらえる。

 ただ話を聞いてもらいたいだけの患者にとって、ひとりなら10分で終わりなのに、人格が5人になれば50分も話を聞いてもらえるとなったら、それはもう多重人格さまさまだ。

 

 自分にとって都合が悪い件は、Aという人格のせいにしてしまえばいい、自分は責められなくて済む。

 みんなハッピーである以上、多重人格という「設定」はこれからも揺るがず、強固な地位を築きつづけるだろう。

 

 しかし私は、「それ自体がウソ」だと思っている。

 とくに映画などに登場するような、わかりやすい形の疾患は完全なる「フィクション」だ。

 

 私見だが、多重人格は存在しない。

 あるとすれば、多かれ少なかれ全人類が該当する。

 

 

 たとえば人生で重要な岐路に立っているとする。

 定年まで堅実にサラリーマンをつづける理由はいくらでもあるが、脱サラして商売を始めるという一か八かの衝動に賭ける人がいる。

 

 たとえば目の前の女を殺してはいけない理由はいくらでもあるが、殺したい衝動に抗えず一か八かの殺人に踏み出す人もいる。

 殺したい衝動を「人格」と言い換えて無罪になる可能性があるとすれば、犯罪者がそれに飛びつかない理由がない。

 

 そうして量産されていくのが、責任能力のない精神病という社会病理だ。

 一か八か、脱サラして失敗した人のために社会が用意するセーフティネットが民事再生や生活保護なら、犯罪者にとってのそれが、精神科医の用意する心神喪失や解離性同一性障害なのだといえる。

 

 そう考えると、正否はどうあれ納得はいく。

 精神病という「流行」は、「必要とされ」て「生産される」のだ。

 

 有名な映画『真実の行方』も、多重人格者を「演じることのメリット」をひしひしと伝えてくれている。

 犯罪者にとって、これほどメリットの多い病気が「作られる」のは、ある意味で当然のことと言えるだろう。

 

 ウソをついて、利益が得られる。

 その手軽な利益に飛びつくかどうかが、その人の「人間性」を分かつ、ひとつの分水嶺といってよい。

 

 

 で、とりあえずウソ泣きは、軽犯罪として逮捕しておこう。

 最後に、なんのひねりもなく、含蓄の深い古い俚諺を添えて、2019年の書き込みを終える。

 

 ウソつきは泥棒のはじまり。