私はあまりテレビを見ないが、たまさか見ることはある。

 で、見ていたのがニュースバラエティ的な番組。

 

 出てきたお年寄り。

 最近の若者の日本語は乱れておる、というようなことを、したり顔で宣う、学識経験者なる老人だった。

 

 資料映像として出てくるのが、最近のジョシコーセー。

 かなり特殊な感じの子を選んでいるのではないか、とも思ったが、まあ、わかりやすくはある。

 

 「やばい」を連呼したり、なんでもかんでも「かわいい」で片づける。

 その語彙力が、あまりに少ない点を指して、番組はこれを批判する老人のブイにつなげていた。

 

 きちんとした教育を受けていない、将来が不安だ、と。

 要するにこの老人、バカ娘どもを腐したいわけだ。

 

 という書きっぷりからもわかる通り、私はジョシコーセーの味方だ。

 さらに言えば、この手のえらそうな老人がキライだ。

 

 勉強したらどうなるの?

 あんたみたいになるとしたらお断りだよ。

 

 などと思いながら、別の番組に変えた。

 

 

 画面は、私の大好きな科学番組。

 この手の番組は、ほんとうにおもしろい。

 

 海洋の研究者が、コアのサンプルを採取していた。

 そこで彼は、興奮気味に言っていた。

 

「これヤベエっすよ、マジ、すげえヤベエ、うっわ、ヤバイ!」

 

 コアサンプルを見て興奮する気持ちは、なんとなくしかわからないが、ともかく「やばい」を連呼していることで、いろいろと伝わった。

 げらげら笑ってしまった。

 

 こういう人の研究で、この国の未来が支えられている。

 専門バカと呼ばれるのかもしれないが、バカと呼ばれるくらい、ひとつのことに熱中してこそ大きな成果がもたらされるのではないか、と思う。

 

 先ほど日本の将来を憂いていた老人に対する、明確な答えがこれだ。

 べつに語彙が少ないとか、表現力が足りないとか、そんなことは、女子高生にも研究者にもたいして意味のない、些末な一要素にすぎないのだ。

 

 言葉の乱れ(と老人が感じているに過ぎない事象)をもって将来云々を語りだす、学識経験者なる年寄こそ、もっと広い視野で自分の人生を省みて反省したらどうかと思った。

 えらそうにしている老人を見ると、すぐに老害という言葉に結びつけてしまう自分も、ちょっと反省したほうがいい気もするが。

 

 言葉など、とにかく伝わればいいのだ。

 無駄な修飾語、多彩な表現力ごとき、一般人には宿題のページを埋める役にしか立たない。

 

 簡にして要を得る。

 「やばい」の連呼で事足りる人々であれば、彼らにとってはそれでよいのだ。

 

 

 とはいえ、もちろんそれは「人による」。

 小説家に語彙力が足りなかったら困るし、表現する仕事の人においては、言葉は知っていたほうがいいだろう。

 

 たとえば、ミステリーハンターになる人には、ある程度の語彙力を求めたい。

 昔、ふしぎ発見を見ていて、こんな女が出てきた。

 

 世界遺産的なすばらしい景観。

 それを紹介する言葉。

 

「すごーい、すごいすごい、すごーい」

 

 ……いいかげんにしろよおまえ仕事しろ。

 たぶん、多くの人が思ったのではないだろうか。

 

 考えてみれば、あのシーンを切らなかった制作者の問題のような気もするが、どうしても見せる必要のあるカットに、彼女のつたない表現力を用いるしかなかったプロデューサーも、断腸の思いであったのかもしれない。

 いないほうがいいミステリーハンター、というのも、なかなか稀有な体験ではあった。

 

 その点、竹内さんは見ていて心地よい。スッと入ってくる。邪魔にならない。要点は伝わる。

 ミステリーハンターの代名詞にふさわしい。

 

 仄聞するところ、彼女は小説も書いているようだ。

 物事を伝える職業の人には、やはりある程度の表現力は必要だろう。

 

 

 

 理系・文系という言葉がある。

 ものを書いている私は文系かといえば、そうでもない。

 

 科学番組が好きなことからもわかるとおり、理系への関心はハンパない。

 実際問題、理系とか文系という分類そのものが、ちょっと現実に合っていないような気もする。

 

 ただ、得手不得手が顕著という意味では、数学がわかりやすいだろうとは思う。

 私は、ろくに勉強してこなかった人間だが、数学は好きだ。

 

 好きなのだが、学校でそれをやるとなると、著しく教師に左右されてきた。

 私が勉強しなかった責任の半分は、教師にある、と言いたいくらいだが、もちろん自分の責任であることは認めている。

 

 代数幾何はいい先生で、かなりの点を取った。

 基礎解析は心の底から合わない先生で、赤点をとらないことだけを考えた。

 

 しかし勉強とは、本来そんなどうでもいいことに左右されていいものではない。

 微積をちゃんとやらなかったことについては、いまでもたまに後悔する。

 

 もっとも、ちゃんとやったという知り合いは、テストで点を取る以外の部分は、さっぱりわからん、という。

 教わった通りの公式に当てはめる計算作業はできても、応用問題になると思考が停止するらしい。

 

 パズルをするのと似ているが、パズルがきらいな人もいる。

 やはり数学には、向き不向きがあるのかもしれない。

 

 

 私は、いまさらながら趣味で数学をやっているが、計算するより、その問題の「筋道を立てる」のが楽しい。

 よって、受験生がやるような公式を使って計算、といった「作業」はあまりしない。

 

 テストで点を取ることが得意な受験生が苦手としている応用問題のほうに、好んで挑戦する。

 それも別段、模範解答にたどり着くことを目的としていない。

 

 この問題は、こうすれば「美しくなる」んじゃないかな、と「考えるだけ」だ。

 そもそも点を取る目的で数学をやっていないので、これでいい。

 

 建物を作るのには計算が必要かもしれないが、デッサンをする分には必要ない。

 物語がおもしろければ、細部の描写は比較的どうでもいい。

 そんな感じだ。

 

 厳密に探究するのが数学者であれば、私はそれには向かない。

 ただ、数学的思考は、人生の役に立つ……ような気が、しないでもない……自信はない。

 

 数学がきらいな人に、そんな計算をする意味がわからない、というのがある。

 ぶっちゃけ「意味はない」ような気もするのだ。

 

 学校で出す積分など、答えがあることがわかっているのだから、方法さえ気づけばそれが答えだ。

 極限の計算など、諦めなければ答えが出る微分も、あまりやる気にならない。

 

 ただ、どう考えればいいか、どう答えを出すか、その方法を見つけるのがおもしろいだけだ。

 脳内に描いた図形やグラフをいじくりまわす作業をしていると、小説を書くときに使う前頭葉の部分が、いい感じに活性化してくる。

 

 理系と文系が正反対のものという考えは、正しくない。

 いずれにしろ重要なのは、「論理的思考」なのである。

 

 

 というわけで、短編のミステリーを一本書いた。

 某賞に応募したので、半年後を楽しみにしている。

 

 そうして生きる目的をつくっていこう。

 死なないために。