昔、アメーバピグというものがあった。
いや、いまもあるが、そろそろ終了するらしい。
まあアメブロに書いているわけだし、そのへんの事情は皆さんもご存知だろう。
私も一時期、ピグの部屋というものを作ったが、あれはあれでなかなか楽しかった。
そこでの思い出話をひとつ。
当時、あるエリアのコミュニティにしばしば顔を出し、そこで結成された部活なるものに参加した。
いま振り返っても、いいおっさんが……とげんなりするが、そういう時代のせいにしておこう。
で、そこに「部室」という概念が追加されたことがある。
共通の部室に、それぞれの持つパーツを寄付して、なんかいろいろ置くことができる。
で、私は部室の一角を使って、ちょっとしたオブジェを作った。
ピグの部屋で検索するとわかるが、すごいモノを作っている人がいる。
才能の無駄遣いもいいところだが、その完成度には素直に感心する。
それらには、まったく及ばないが、私もちょっとした立体造形に励んだ。
みなさんの目を楽しませる目的だったのだが、どうやら楽しくない人がいたようだ。
数日後、それが消えていた。
参加者は全員、自由に置いたり消したりできるので、消すのは簡単だ。
イラッとした。
消したやつ出て来い、と掲示板に書いた。
消されて不快だっただけとか、そのレベルに還元して終わらないでほしい。
私にも言いたいことはある。
一行で言う。
そのスペースを使いたいなら、代わりのものを作れ、と。
いわゆる「代案を出せ」というやつだ。
ただ「消すだけ」なんて、サルでもできる。
代わりの「価値」を見せてくれ。
そのスペースに置いてあるものを、消さざるを得なかった理由を示してほしい。
犯人を捜したが、もちろん発見はされなかった。
私も底辺に暮らす人間だと思うが、それ以下もいるんだな、と思った事例のひとつだ。
ただ「否定だけする」人。
私は、なにかを作り出したいと思っているし、その性質、性能が高いほうが良いと思っている。
そうでなければ評価されないし、ろくでもないものを「オンリーワンだから」などといってちやほやする最近の潮流も、どうかと思う。
そんな私でも許せないのが、「ただの否定」だ。
私は「別の意見」を持つ人は貴重だと思っている。
私がAという意見を持ち、別の人がBという意見を持つ。
これは健全で、正しい。
許せないのは「否定だけ」する人だ。
私がAという意見を主張する。
それに対し、「Aではない」とだけ言う。
そういう人と、私はうまくやっていく自信がない。
代案を出せよ、と思う。
A案があり、B案がある。
どちらかを選べ、という単純な世界もどうかとは思うが、それでも、ただの否定よりはマシだ。
やらない、という選択肢が正解のこともある。
それこそ、説得的な意見を伴う必要がある。
地球環境に対する弊害が著しいとか、その手のバカげた建設計画に対する純然たる否定なら、理解できなくもない。
それなら代案も出しやすい。
現状の自然を保全する。むしろ自然に返してやる。
自然保護、という大看板だ。
看板に使っているだけ、という謗りは免れないかもしれないが、ただの否定よりはいい。
理由のある否定なら、かまわないのだ。
だから、私の作ったものを消した人は、自分の意見を言ってほしい。
なぜ、それを消す必要があったのか。
残念ながら、消した人のほんとうの気持ちはわからないが、忖度はできる。
ただ私のことが嫌いだった、というのがもっともありそうな話だが、いや待て、この話はもっと広い視点で考える価値がある。
作るのは大変だが、消すのは簡単だ。
昔の偉い歌手も言っている、「壊してしまうのは一瞬でできるから大切に生きて」と(違うか)。
世の中には、ただ否定だけして、建設的な意見は特にない、ただ他人の足を引っ張ることに喜びを見出す、という種類の人が一定数いる。
新しい価値を生み出す意欲も能力もないが、他人が生み出したものを破壊したり消去する欲求だけはある。
そういう人、あなたの周囲にもいないだろうか?
私は、この人々とだけは、ほんとうに相いれない。
否定によって空いたスペースを、より高い価値で埋めるなら、まだいい。
だが結局、そこには空虚だけが残った。
彼あるいは彼女は、空虚な空間が好きなのかもしれない。
だったら、部活なんか参加してないで、自分が掘った穴でも眺めていればいいのに。
つれづれなるままに、そんなアメーバピグの想い出に浸ってみた。
さようならアメーバピグ、きみのことをしばらく忘れはしない……。