山田洋次『家族はつらいよ』を見た。
どうしようもない爺さんが、熟年離婚で捨てられる話だ。
婆さんは、自分の力で生きることができるから、もうあなたの世話はしたくない、と。
婆さんの事情のほうが強いし、正しい。
爺さん自体は自業自得だと思うのだが、婆さんも婆さんで、中途半端な結末だった。
爺さんが心を入れ替えたので、許してしまったのだ。
そもそも爺さん、あんた靴下くらい自分で脱げよ。
半端ない甘えた男が、世の中にはいるもんなんだな、と思った。
私は、自分でできることは自分でやるようにしている。
なので、他人の力を必要としない。
ひとりで暮らしていて、その環境に満足している。
映画のテーマの入り口にすら到達していない男なので、この映画の見方も、もしかしたらまちがっているのかもしれない。
自分のことができない爺さんは、家政婦を雇えばいい。
家政婦より立派な仕事ができる婆さんは、自分の道を進むべきだ。
誤解を恐れずに言うが、そもそも家政婦の仕事なんて、たいしたことではない。
ホテル並みの仕事を目指すならともかく、ただ暮らす分には、必要とされる家事労働など、削ろうと思えばどこまでも削れる。
何十年もそれをやってきた私は、重ねて言うが、家事なんて時間をかける価値もないと思っている。
そんなことよりマシな仕事のできる人、この映画でいえば文筆の才能を持った婆さんこそ、尊敬に値すると思う。
その仕事を、やり遂げてはくれまいか。
「家族」とか、「愛」とか、「お金」とか、いやそりゃ大事だろうとは思うが、「夢」にとってはオマケみたいなものではないか。
男女の関係は、そういうものではないのよ、と諭されたことがある。
そうらしい。私には縁のない話だ。
一応、私も、それなりに男女関係は積んだ。
ごく短い期間、女の人と暮らしたこともある。
もちろん、すぐに破綻した。べつに相手のせいにするつもりはない。
が、一応、理由らしきものを考えてみよう。
彼女は、文句を言った。
映画の婆さんよりも、さらにリアルに。
言うのは彼女の自由だ。
ただ、その結果は受け入れてもらう。
文句があるなら、あなたのやり方でやってください。
私は、そう返すだけだ。
しかし彼女は、文句は言うが、自分で計画を立てるとか、行動を起こすなどはしない。
ただ私の立てた計画や、購入した品物や、行こうとする場所が気に入らないだけなのだ。
気に入らないくせに、買えとか連れて行けとか、漠然とした要求はする。
彼女が婆さんになったら、どんなことを言いだすか、考えるだけで恐ろしい。
と、私の側の理由ばかりを言ったが、もちろん相手の側にも、なにか耐えがたいものがあったにちがいない。
最初から、お互いに耐えられるはずもなかったのだ、と諦めるようにしている。
作品の打ち合わせなどでも、似たようなことはよくあった。
文句ばかり言う人とは、どうしても噛み合わなかった。
こちらからはアイデアを出すが、相手から出てくるのは否定だけだ。
しかも、どう聞いても納得のいかない否定に、しばしばぶつかった。
社会人になれば、多くの人が出会うだろう「不条理」な状況。
たしかに私が原作なのだから、アイデアを出すのは当然だと理解はしている。
しかし編集者や漫画家が、アイデアを出さなくていい理由にはならないし、否定だけしていればいいというわけでもあるまい。
それでもしばらくは、努力した。
努力が足りない、と言われればそれまでだが。
いまも努力はしている。
ただ、もう無理はしない。
私の書いたものが気に入らないなら、そっとしておいてください。
というわけで、そっとしておいてもらっている。
ありがたい限りだ。
私には、そもそも他人との関係を長くつづける能力がなかった。
20年、いや、生まれたときから全部かけて、それを学んできた気がする。
否定ばかりする人とは、ほんとうに噛み合わない。
それならあなたがやってください。もっとすごいことを。
あなたの否定がもたらす成果を、遠くで見守らせてください。
というような結論を、けっこうすぐに出してしまう。
諦めるんですか、という編集者の声が耳から離れない。
私を諦めさせようとする、あなたの意見を尊重しているだけなのですが。
ともかく、私には必死さが足りない、らしい。
一生懸命やってるつもりなんですけどね。
ついでにもひとつ、この話につながる、いい映画を見た。
『ジョゼと虎と魚たち』。
とてもいい映画です、見てください。
「帰れと言われて帰るようなやつは帰れ」。
本心をぶつけられず、素直になれないジョゼの言葉だ。
私は性格として、帰れと言われたら帰る。
つまり、私はジョゼと噛み合わない。
本をたくさん読んでいるジョゼと私は、部分的に似た者同士なのだろう。
同じ極は反発するように、似た者同士は近寄れない、ということか。
一方、私のほうは、自分がいやだと言ったものは、断固としていやだ。
帰れと言われて帰らないようなやつは、よけいにいやだ。
ジョゼは、帰れと言われて帰らないやつと仲良くなった(結末はともかく)が、私はそういう人とは余計に仲良くなれない。
より孤独になるタイプ、ということなのだろう。
いやなものは、いやなのだ。
だから女子とも、あまり仲良くなれない。
彼女らは、いやじゃないのに、いやと言う。
もちろん例外はあるだろうが、そういうパターンがとても多いイメージだ。
若いころは、しょっちゅう怒られていた。
その「いや」は、「いやじゃないんだよ」と。
こういう姿に、私の大きらいな「商人」の姿が重なった。
商品を高く売るために、もったいつける、という例のやつだ。
本当は売りたくてしかたないのに、ほかにも欲しがってる人がいるんですよねー(たいていいない)、などともったいつける。
その手の駆け引きが、血反吐が出るくらいきらいだ。
私は、その商品の持つ価値を、その価値に見合った値段で買い取りたいのだ。
そういう正直な商売をしている商人は、ほんとうに好きだが、商人仲間のあいだでは、その手の「馬鹿正直」な商人は蔑まれる傾向さえある。
だから、いやだ。
商人根性丸出しの女が、いやだ。
もちろん、この手の女は一部だろうとは思うが、まちがいなく一定数いる。
いわば娼婦気質なのである。
自分を高く売るための手段を必死で模索した結果が、この手の「駆け引き」なのだ。
世の中には、残念な私娼が溢れかえっているな、と思う。
といっても、私は風俗嬢がきらいではない。むしろ好きだ。
彼女らの底抜けにアホっぽい笑顔と、その裏に刻まれた深い影を、愛さずにはいられない。
一方で、風俗業界はきらいだ。女衒とか、死ねばいいのに、と思う。
女の生き血をすすって生きるとか、ムシケラ以下か。
おそらく「駆け引き」という、私の大きらいな部分を担っているのが「業界」だからだろう。
一方、風俗嬢自体は、なんらかの問題を抱える人は多いようだが、それでも愛すべき部分にあふれている、と思う。
よって、風俗嬢はきらいではないが、風俗業界が大きらいだ。
娼婦は、もちろん底辺の一角ではあるだろう。
だから私にとっては、仲間だ。私も、自分の生活は底辺に近いと思っている。
そんなにお金を稼がないで、ぎりぎりの食べ物だけで生きる、という挑戦もした。
お金という意味では、まちがいなく底辺だ。
たしかに一時期は稼いだが、トータルすれば悲惨なものだ。
だが、下には下がいる。
底辺の底辺、それがポン引きどもだと思う。
やるに事欠いて、同じ底辺の女の生き血すするとか、どんだけクソムシだよ、と。
しかし世間では、残念ながら、この薄汚い「商人」の勢力が非常に強い。
士農工商という価値観が正しいとは思わないが、商人を底辺に置きたい気持ちは、非常によくわかる。
だから私は、この弱い力で、強い商人たちに立ち向かいたい。
商人どもが、いやがる人間でありつづけるのだ。
というわけで、商人気質の女子にとっても、私はほんとうに都合が悪いだろう。
「必死さが足りない」人間、つまり欲しがらない人間に、なにかを売りつけることは、とても難しいからだ。
「それ」が、そんなに必死になる価値があるものだと、いかに安く思わせるかが「商人」にとっていちばん大事なことだ。
その価値を信じさせるために、コストがかかっては困る。
商品を高く売るために、是が非でも必要なものが、私には欠落している。
平たく言えば、私は、女を愛したことがない。その価値に懐疑的なのだ。
もちろん愛する価値がある女子は、世の中いくらでもいる。
そうなると逆に、そんな立派な女子に、私ごとき者は似合わない。
バランスが悪ければ、さっさと諦めてしまう。
畢竟するまでもなく、孤独を愛して生きるしかないのである。
という、ダーウィン賞に値する結びで、本日の論を閉じるとしよう。
孤独にしか生きられない人間も、いるのだ。
※ダーウィン賞
進化論者であるチャールズ・ダーウィンにちなんで名づけられた皮肉の「名誉」であり、愚かな行為により死亡する、もしくは生殖能力を無くすことによって自らの劣った遺伝子を抹消し、人類の進化に貢献した人に贈られる賞である。
ウィキより。