私は仏教徒なのか、と自問してみる。

 これだけ仏教の経典を読んでいる人間は、あまりいないと思うが、学者が信徒であるとは限らない以上、素人研究者にすぎない私も仏教徒とは限らない。

 

 実家の墓が浄土真宗なので、葬式仏教徒ではあるかもしれない。

 では、墓じまいすれば、仏教徒ではなくなるのか?

 

 そういう問題でもあるまい。

 などと考えながら、今日も今日とて仏教を研究する。

 

 

 体系的理解に、ウィキペディアは欠かせない。

 私は基本、ウィキは「疑ってかかる」のだが、重要な示唆が非常に多いところは、たいへんに重宝している。

 

 さっきまで読んでいたノートでの論争も、とてもおもしろかった。

 それは、大乗非仏説を否定したい人と、否定する根拠はないという人の戦い。

 

 ちなみに「大乗非仏説」とは、

 大乗仏教の経典は釈尊の直説ではなく、後世に成立したものだという説

 である。ウィキより。

 

 ある種の大乗仏教側としては、看過し得ないらしい。

 そのページの編集について、侃々諤々だ。

 

 大人なんだろうが、お互いに相手を「子供じみている」「自分勝手な理屈」「能なし」「見苦しい」「低能」と非難し合っている。

 私は個人的に、先に仕掛けた側が「悪」と、さしあたり断定して見ることにしているので、先に「あなたは論理的思考力に乏しい」と言い出した側を敵対的に見たが、彼の言っていることに理解できる点がないわけではなかった。

 

 もちろん、対抗する側にも正しいと思える主張は多かった。

 比較検討した結果、ブッダは泣いてるな、と結論した。

 

 ゆえに大乗非仏説は正しいと思った。

 これは、論理構造として、いかがなものか?

 

 ともかく、宗教やってる人ってのはヤバイな、と感じる議論だった。

 より中立に近い側を応援したいと思う。

 

 ちなみにこのノートでは、とおりすがりの方の「会話」が、話に結論ぽいものをつけてくだされていた。

 じっさい議論(?)も、最後のほうは、もうどうしようもなくなっていた。

 

 最初はましだったのに、だんだん宗教やってる人の本性が出てきた感じだった。

 やっぱり、先に仕掛けたほうが悪かった、って話。

 

 

 ただ、これで戦争にならないのが、仏教のいいところだ。

 悪口を言って、ののしり合っている程度なら、まだいい。

 

 仏教国というのは、宗教戦争の色彩が希薄のように思える。

 仏教を理由に戦争がなかったとは言わないが、どちらかといえばアジアの戦争は、シンプルに権力闘争だ。

 

 ヨーロッパでも同じだろうが、そこに宗教が絡んでくる確率が高いように思える。

 ちょうどボルジア家の興亡を描いたドラマを見ているが、世俗化した宗教って、ほんとタチ悪いなと思う。

 

 恐ろしいのは、彼らにタブーが少ないことだ。

 いくら戦争でも、やっちゃいけないことはあると思われるが、彼らには「異教徒を人間として扱わない」という共通理解があるため、家畜のようにぶち殺すことも、意外と平気でやる。

 

 わが国も最近、一神教の国に300万人ほど殺されたばかりだ。

 よって、よく知っている。

 彼らが、けっこう平気で大量殺戮兵器を使えたりすることを。

 

 なぜ「平気で」とわかるかというと、それが「正義」だと国連憲章に書いてあるからだ。

 反省の気持ちがないか、ないふりができる人間でなければ、そんなことは書けまい。

 

 

 史上最大の人殺し国家は、おおむね一神教からやってきた。

 これに匹敵するのは、共産主義くらいのものだろう。

 

 だが共産主義は、基本的に自国民を殺している。

 ソ連や中国における粛清や失政(権力闘争が理由)による犠牲者は、人類史に残る規模だった。

 

 その点、一神教は、かなり無差別だ。

 異民族を見つけたら、まず殺す。そうでなければ奴隷にする。

 とりあえず最初のころは、まちがいなくそうだった。

 

 批判しているわけではない。人類の進化を加速したのは、このような劇毒だった、という点を認めているのだ。

 毒が強いほど、進化は加速される。

 

 漢方薬のようにまったりとした毒では、世界は大航海できなかったし、せっかくの発明品も広まることはなかった。

 これも歴史が証明している。

 

 中国でどれだけの発明や文明が花開いたところで、それは内向きに閉じていた。

 弾けるきっかけが、外から「布教」という名でやってきても、まだ閉じていた。

 

 このへんは、東アジア勢も大いに反省しなければならない、と思っていた時期もあったが、いまは疑問を感じる。

 たまたま早く開いたのが日本だったが、それがいいことだったかどうかはわからない。

 

 

 現在の世界を築いたのは、多かれ少なかれイギリスだ。

 イギリスが、要所の戦争でちょいちょい勝つたびに、世界という粘土は彼らが放った銃弾の形にえぐられ、形を変えていった。

 

 ほどなく、その「世界えぐりゲーム」に、後発の先進国、ドイツや日本などが参戦したわけだが、先発は「まだ俺らが食ってんだよ」と後発を締め出しにかかった。

 それが20世紀の半ばまでに頂点を迎えた、いわゆる世界大戦である。

 

 で、戦いに勝ったほうが「正義」ということになった。

 相手をたくさん殺した側が勝利し、「正義」を掲げる。これ自体は、昔からの戦争のルールそのままなので、べつに異論はない。

 

 よって日本は、ある意味、反省する必要がない。

 たくさん殺せなかったことを反省する必要が、どこにあるだろう?

 

 反省するとすれば、相手をたくさん殺すゲームに参加したことだ。

 このゲームは儲かるので参加したい気持ちもわからないではないが、二度と参加しないでいただきたいと思う。

 

 ちなみに私自身は、徴兵されたら戦場には行く。

 そして、やるべきことをやる。

 

 ゲームはやらないでほしいが、やった以上は勝たねばならぬからだ。

 これだけは、参加することに意義はない。

 

 しかし何度も言うが、絶対に参加しないでほしい。

 いいかげん懲りてくれ、人類よ。