奈良盆地 環濠集落 百以上
古い道標
下の字が読めない(>_<)
かつて奈良盆地には100以上の環濠集落があったといわれていますが、中世以来の環濠がここまできれいに残っているのはこの稗田環濠だけだと思います
集落を囲繞する水堀をよく残しており、典型例ともされています
城郭としても利用されており、古市氏と筒井氏の争奪戦の現場となったり、松永氏の郡山城攻めの付城としても利用されたとされています
概ね260m四方に濠が巡らされた築造当時の姿を、ほぼ完全な形でとどめる代表例として全国的によく知られていて、歴史の教科書にも載ってたりします
戦国時代の争乱の中、農民たちが自衛のために造った環濠は、城砦的な機能はもちろん、環濠が有する貯水能力から、農業水利や治水上も重要な役割を担っていました
集落内に巡らされた道路は、いたる所に見通しがきかない曲がり角や三叉路を配置し、道路の端は行き止まりの袋小路にするなど、防衛を考慮した構造となっています
近年の発掘調査で藤原京から南北の伸びる三つの官道のうち、『下つ道』が見瀬丸山古墳から平城京の大極殿、羅城門に続いていることが確認されている
古代の直線道路で、壬申の乱(672年)頃には日本書紀の記事にその名が見えます。特にこの稗田あたりでは素掘りの側溝が検出されその規模が特に大きいことが確認されています
古事記の編纂者の一人である稗田阿礼はこの稗田エリア出身であると言われています
自衛のために濠と土塁を設けられていたが、江戸時代以降は、環濠は主に灌漑用の水路・貯水池として使われていた
しかし近年になり河川改修で水量が減って水質が悪くなり、多くが埋められてしまった
集落の南東あたり売太神社前に駐車場があります












