自衛策 稗田環濠 集落

中世環濠の姿をほぼ完全な形で残している全国的にも貴重な集落が、稗田環濠集落

古くは縄文の昔から戦国時代にかけて、日本全国に見られた集落なのですが、近代になると交通の不便さなどから多くが埋め立てられてしまい姿を消しました

集落を囲む水堀がはっきりわかります

北東、鬼門の方角の堀が屈曲していて「七曲り」と呼ばれる形です

稗田環濠の成立年は不明ですが、最も古い文献上の記載は「経覚私要抄」の1444(文安元)年2月の記事に古市胤仙が稗田に陣を敷いたと記載があり、室町中期までにはこの地に集落があり、城砦としての機能を持っていたことが伺えます

賣太神社の西側にも、近代までは枝堀があり、神社の境内がかつて主郭の役割を担っていたと推定され、集落全体が城跡ともいえます

中世の大和は大乗院と一乗院の衆徒同士の争いが鎌倉時代から南北朝、戦国期まで延々と続いた戦乱の時代で、奈良盆地には外敵から村落を守るため多くの環濠集落が生まれ、稗田環濠集落もそれらの一つでした

戦乱が鎮まると、各地の濠は防衛施設としての役目を終え、用水路として使われたり、埋められたりしましたが、稗田環濠はほぼ完全な形で現在まで残されました

現在稗田環濠は、治水対策で濠の大部分がコンクリートで整備されています

濠は農業用水としても使われたでしょう

今は他集落と道路で繋がっています

生活用水としても

稗田環濠集落整備完成予想図(かなり昔のものです)