皇紀2600年 石原莞爾が 参詣す

祭祀:矢追隆蔵(日聖)

昭和期の宗教家,社会福祉事業家 大倭教教祖;(福)大倭安宿苑

明治44(1911)年12月23日生駒郡富雄村(現・奈良市中町)生まれ

立正大学史学科〔昭和9年〕卒
平成8(1996)年2月9日没(85歳)
父親の代に生家が大倭神宮として宗教活動を始め、戦後それを継いで活動する
昭和22年敗戦で街にあふれる浮浪児などを集め、終身保障制の地域共同社会“紫陽花邑”を築き、救護施設、老人ホームなどを内包する“ムラ”を形成
31年(福)大倭安宿苑を創設し、38年ハンセン病回復者復帰センター交流の家を、62年大倭病院を設立
著書に「やわらぎの黙示」「ながそねの息吹」など
明治44年、隆家は大倭神宮の神地に住む矢追家に生まれた。大倭神宮は矢追家の「邸内社」とも言えるものだったが、その伝承は古く神代にまで遡り、境内にはスサノオがヤマタノオロチ退治後に妻とした奇稲田姫の墓とされる場所がある
ただし、隆家が生まれた頃には神域の「鵄の森」も維新以降の開化政策により切り開かれていた。そして、そこに住む矢追家の人々には代々霊能力を有する者が多かったという
隆家が少年の頃に、両親は神社から離れて大阪で事業をするも失敗。隆家自身も虚弱体質から公立中学校への進学が叶わず、大阪の私立へ進学した
 
この頃から矢追家の人間として隆家も神示を受けるようになるが、どうも本人はそれが嫌だったらしい。こういった矢追家の霊能力は祖先から伝わる誇大妄想や精神異常が遺伝してるに違いないと考え、神示に反抗し続けていたそうだ。霊的な現象にあっても簡単には信じられず、科学的根拠を求めた
このように「宗教的なもの」を嫌悪していた隆家だったが、人助け・世直し的なことをしたいという願望は持っていた。これは母親の影響が大きいようだ。矢追家の経済状況は苦しかったが、息子に変な気を使わせまいと母親は必死にそのことを隠し、隆家もそんな母親の気遣いを察して物は大事に使っていた。隆家がどうしても金銭が必要で母親に頼んだ時には、求めた金額よりも大目に出してくれた。そんな母親の真心・大慈悲に触れていたことからか、不幸な人を助けたいという気持ちも自然と養われていった。ただし、人助けといっても”宗教による”人助けには気が無かった。宗教よりもあくまで実業や教育、政治などで成功して人助けをしたいという実務的な方面で考えていたようである
ところが青年期になって、「反宗教的思想の為にはまず宗教を学ばなければならぬ」と思い立つ。隆家は様々な本を読み勉強した。そんな中で出会った「日蓮」の教えに魅かれ、結局、宗教系である立正大学に進学した
以下、続きがあります( ..)φメモメモ

 

※MinokataさんNotoより