持久戦 鎌倉幕府 滅亡させ
鎌倉幕府軍は、上赤坂城の例にならい水源を断ち持久戦に切り替えたが、城内には大木をくり抜き300もの木船が水もたたえており、食料も十分蓄えていた
長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、楠木正成はわら人形を20-30体作らせ、甲冑を着せ弓や槍を持たせた
その人形を夜のうちに城外の麓に並べ、後ろに兵500を潜ませ、夜明けになると鬨の声をあげさせた。鎌倉幕府軍は決死の攻撃と思いこみ攻め寄せた為、兵500は矢を放ちながら徐々に城内に引き上げた
鎌倉幕府軍がわら人形に到達した所を見計らい、大石を投げ落とし、300名が即死、500名が負傷した
鎌倉幕府軍の持久戦に対して、同年3月4日に鎌倉より厳しい下知が届き、将士を督励することになった
そこで鎌倉幕府軍は近くの山より城壁ヘ橋を掛けて一気に攻め上ろうとした
京都より大工衆500余人を呼び集め、巾15尺(4.5m)、長さ100尺(300m)の橋を造り、大縄をつけて城内へ殺到した
楠木正成は、かねてより用意していた水鉄砲の中に油を入れ橋に注ぎ、それに松明を投げた
城内にたどり着こうとしていた兵は後ろに下がろうとしても後陣が続いており、飛び降りようにも谷深く、もたもたしていると橋けたの中ほどより折れ、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと太平記に記載されている
本丸の北側の渓谷は谷が深く、北谷川上流の風呂谷には「懸橋」という地名が残っていることから、太平記には誇張があるにしても実際に実行されたと考えられると指摘されている
千早城へ釘付けになっている幕府軍の間隙を縫い、後醍醐天皇(先帝)が隠岐国の配所を脱出、討幕の綸旨を全国に発し、これに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池氏が蜂起すると、千早城を囲んでいた守護が相次いで帰国した
関東において挙兵した新田義貞は、手薄となった鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなる鎌倉幕府が滅亡するのは100日戦争(千早城の戦い)が終了した12日後のことであった











