蝉しぐれ 兵どもの 鎮魂歌
8月30日(日)金剛山自然観察登山
29日(土)に予定していましたが、前日の雨、当日の降水確率50%で1日順延して催行
四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城
金剛山城、楠木七城の一つ
昔から交通、軍事の要衝であった千早街道から登りつめた金剛山より西にある一支脈の先端に築かれた山城で、楠木氏の詰め城である
周囲が約4kmで千早川の渓谷を利用し、北には北谷、南東には妙見谷、東は風呂谷があって、四方の殆どを深い谷に囲まれ、城の背後のみが金剛山の山頂に連絡する要害の地
城の最高所の標高は673m、比高は175mとなっている
北条軍を引き受け、楠木正成が奇策を用いた攻城戦の舞台となった
楠木正成は2つからなる城を持っており、下赤坂城が前衛の城、本城が上赤坂城とされる
下赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、下赤坂城に1331年(元弘元年、元徳3年)10月21日夜、自ら火を放ち鎌倉幕府軍に奪わせた
楠木正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、下赤坂城、上赤坂城、千早城の3城で鎌倉幕府軍と対峙し、上赤坂城には平野将監入道、楠木正季以下300兵を守備隊とした
鎌倉幕府軍は千早城へ百万とされる軍を向け、これを攻撃した
籠城側・楠木軍は僅か千人足らずで守ったとある。「城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充満せり」(『太平記』)とあり数十倍の大軍が千早城に押し寄せて来た様子がうかがえる
上赤坂城で勝利した鎌倉幕府軍は、ろくに陣も構えず、我先にと攻城した。千早城では櫓より大石を投げ落とし応戦し逃げ惑う兵に矢と飛礫が降りそそぎ、谷底に死体の山がうず高く重なった
四の丸跡











