大沢城 栄枯盛衰 帰農する

承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒幕せんとした乱・・結果、上皇方は鎌倉勢に大敗することとなる)では、在丹波の勢力は、その殆どが上皇方として参戦した

鎌倉幕府は没収地を戦功の恩賞として分与した結果、丹波には東国武士が流入し、彼らに当地域が支配されることとなった

わが大沢には、相模より酒井一族が入り、大沢城を居城とした

戦国に入り、因幡石見から波多野が進出し、大名領国を形成し織田信長の天下平定に対抗し、毛利などと結んで、丹波国内60余城を従え、京都西方の一大勢力を形成していたといわれる

酒井一族は波多野に組み入れらながらも、酒井党として地域的な結合を図り、半ば治外法権のような権勢を有していたといわれる

大沢城主の家臣の杉本が政務を取り仕切ったといわれる。これの末裔が杉本家として今に残るところである

織田信長は明智光秀に丹波攻略を命じ、2回にわたる丹波攻めの結果、大沢城も落城、家老杉本は帰農し、豪農となっていった

大沢城跡から焼き米が出たことがあり保管米が城の焼き討ちで焼けたものと伝えられ、大沢城跡を「焼け城」と称されている

大沢城主酒井は「犬死には無駄じゃ。戦はこれまで。皆のものは再起を期すべし」として降服、服従することとしたといわれている

城主酒井は明智に臣従し、山崎の合戦に破れ安土から坂本に向かう途中、討ち死にしたと伝えられる 

こうして多くは帰農し、「大沢」を居場所と定め、戦国の百姓としての苦難の生活の中で村落共同体を強固なものとして形成していった

これがわが集落の起源と考えられる。大沢城のふもとから平坦地にかけてのなだらかな丘陵地に居を構え、集落形成していったものであろう