生涯を 建築士として 生き抜いた
ガウディの処女作は未完のものも含めると1867年ごろの産業コロニアだといわれている
この仕事でマタロ協同組合の教師ペピタと知り合った。これが初恋であった。しかし、成婚に至らず、その後一生独身であった
1878年4月に建築士の資格を取得
当時のバルセロナ建築高等技術学校校長で建築家のアリアス・ルジェン(エリアス・ロジェント、)は、ガウディについて「彼が狂人なのか天才なのかはわからない、時が明らかにするだろう」と言ったと伝えられる
同年、ガウディはパリ万国博覧会に出展するクメーリャ手袋店のためにショーケースをデザインした
この作品を通じてガウディの才能を見初めたのが、繊維会社を経営する富豪エウセビオ・グエル侯爵であった
グエル侯は、その後40年あまりの間パトロンとしてガウディを支援し、グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を依頼した1
883年、ガウディは、サグラダ・ファミリア教会の専任建築家に推薦され、就任する
後半生を熱心なカトリック教徒として過ごした1914年以降、彼は宗教関連以外の依頼を断り、サクラダ・ファミリアの建設に全精力を注いだ
しかし、親族や友人の相次ぐ死によるガウディの仕事の停滞とバルセロナ市が財政危機に見舞われたことによってサグラダ・ファミリアの建設は進まず、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止されてしまう
さらに1918年、パトロンのエウゼビ・グエイが死去した。またガウディ自身も1911年(当時59歳)にマルタ熱病に罹り、プツチセルダーで療養を余儀なくする
1926年6月7日、ガウディはミサに向かう途中、段差に躓き転倒、そこに通った路面電車に轢かれた
晩年は酷く痩せていたうえ、身なりに気をつかわなかったため、浮浪者と間違われて手当てが遅れ、事故の3日後に入院先の病院で死去
(満73歳没)。遺体はサグラダ・ファミリアに埋葬されている











