焼き討ちで 灰燼に伏すも 再建され

摩尼寺山門は本堂の南側正面にあり、両開きの桟唐戸を設えた一間一戸薬医門である

西側の漆喰塀に潜戸を伴う。親柱は五平の鏡柱とし切石の礎石の上に立て、控柱は角柱で礎石の上に礎盤を挟んで立てる

親柱上に冠木をわたし、その上に皿斗付大斗をのせ三斗組を組んで実肘木をのせる。控柱上にも本柱と同様に冠木をわたし、皿斗付大斗上に実肘木を置いて、その上に女梁(肘木)と男梁(腕木)を架け控柱の桁につなぐ

親柱と控柱をつなぐ繋梁は短いが虹梁風にして絵様を施す。軒は二軒繋垂木。妻飾には蓑束を立て、その左右に装飾的な笈形をあしらう

木鼻や実肘木の絵様、とくに渦の形状は、本堂腰組の頭貫や木鼻と酷似しており、本堂とほぼ同時期に建立された可能性が高いと思われる

門前と山門の中間に建つ仁王門(県指定保護文化財)は、文禄3年(1594)に島根県隠岐郡西ノ島町の焼火神社(旧焼火山雲上寺/重要文化)より移築と寺伝に言う

しかしながら、虹梁絵様の様式は18世紀後期を示しており、壁や柱には文政七年(1824)、安政二年(1855)、安政三年(1856)、文久(1861-63)の落書が残っている。落書の多くは本堂・山門再建の年代と近接しており、仁王門の移築がなされたとすれば、本堂・山門の建設と同じ幕末期の可能性がある一方で、隠岐諸島で明治期に推進された廃仏毀釈に伴う移設の可能性も否定できない

その場合、山門の明治22年再建と仁王門の移設が同時期であったことになるだろう

古来より信仰の対象として崇められてきた摩尼山の山頂付近に開創された古刹であり、山頂の立岩は帝釈天降臨の霊地とされている

寺に伝わる『摩尼寺帝釈天王縁起』(弘化3年・1846年筆写)によれば、平安時代の初め頃、高草郡の産見(うぶみ)長者が喜見山(摩尼山)に登ると、

立岩に帝釈天が降臨し、「今よりこの峰に鎮座して衆生を救い、なかんずく五障の身である女人を済度しよう」と告げた

長者はこの地に精舎を建て、それを承和年間(834年頃)、円仁(慈覚大師)が再興したのが摩尼寺の起こりであるという