アゲハ蝶 岡益廃寺 安徳帝

アゲハ蝶の家紋の因果関係にある岡益廃寺について

石堂の周辺は白鳳期の岡益廃寺の跡といわれ、明治の頃までは古代寺院の礎石や瓦が散乱していたという

観音院から久松山

石堂と廃寺は同一地域にあるため、「何らかの関連があることは間違いなく、石堂と廃寺が同一の時代に存在したとすれば、一体となって信仰の場を作りだしていた」とする見方もある

城下町交流館「高砂屋」

岡益廃寺および石堂の崇拝の主体は武内宿禰とも、この地の豪族・伊福部氏の祖先とも言われるが詳細は不明。岡益廃寺は9世紀には廃絶したと考えられている。 その後、室町時代になって薬師如来を安置した寺として再興されたとする説がある

光明寺

安徳天皇陵墓参考地に指定されてからは、陵墓としての威厳を表すために基壇の周囲が掘り下げられ、古代の面影は失われてしまった。礎石の一部は周辺の雑木林の中に残り、出土した瓦は長通寺に保存されている

覚應寺

文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで海中に没したとされる安徳天皇は、実は二位の尼や越中次郎兵衛盛次らに守られて戦場を離脱していた。平家一門は海路因幡国賀露の浜にたどり着き、法美郡岡益にある長通寺の住職の庇護を受けた。しかし梶原景時を頭とする源氏の追及は厳しく、一行はさらに山深い八上郡明辺(あけのべ)の地に遷って行宮を築き、息を潜めるように暮らしていた

戦から2年後の文治3年(1187)の春、山伝いの法美郡荒船に遊びに来ていた安徳天皇は急に病を発して崩御した。盛次らは一行を匿ってくれた長通寺の住職に幼帝の供養を頼み、一門の再起を期していずこへか落ちのびていった。この時建立された安徳天皇の墓所が岡益の石堂と伝えられている

また天皇が崩御した荒船の地には、天皇を祀る崩御神社と殉死した平家一門の墓があり、安徳天皇崩御の地と伝えられている崩御ヶ平という小字もある。二位の尼の墓所と伝えられているのは同郡新井(にい)の「新井の石船」と伝えられている古墳である

この伝説に着目した長通寺10世住持・牛尾得明師は岡益の石堂を安徳天皇の陵墓と断定し、宮内庁に十数年かけて陳情した。石堂は明治28年(1895)に陵墓参考地となった

石堂は7世紀ごろ中国の仏教文化の影響を受けて建てられた石造物と考えられており、これを「石灯篭」と見る説、石堂の裏にある岡益廃寺との関連で石の塔とみる説など、様々な説がありますが、定説はなく、謎のままです

石破二朗知事の像

円柱にはギリシャ・ローマなどの古代建築にみられる中央が膨らんだエンタシスという胴張りがあり、下の方には蓮の花弁模様が彫られています

夢時計21