渇え殺し 死肉食い合う 餓鬼地獄
鳥取城渇え殺し
秀吉は安定しない因幡の情勢を鑑みて、吉川経家らが入城する前年の年末から因幡国中の米を高額な値で買い集めていました
さらに、この値段につられて鳥取城の兵士らが密かに備蓄米を秀吉軍に売却していたという
南坂入口
1581年(天正9年)6月、経家の予想を上回る速さで秀吉率いる2万の軍勢が到着
秀吉はさっそく鳥取城を包囲すると陸路から海路に至る全ての道を封鎖し、毛利の援軍を寄せ付けませんでした
7月になると兵糧は底を尽き始めてしまい、次第に馬や牛の肉を喰らい始めるようになります。牛馬の食肉に忌避感を抱いていた時代ですので、よっぽど食べる物がなかったのが分かります
8月には牛馬や猫鼠らも姿を消し、城兵は草木の根や葉を喰らい飢えを凌ぐも、9月には限界を迎え始めます。城内の兵や民たちは土塀を壊し、中に仕込んである藁や芋茎の縄などを食べ始めます
4000人の城兵の半分は農民であったと言われており、体力の無い老人や子供はすでに息絶え絶えとなっていました
10月、さすがにもう籠城は無理と見た秀吉軍は鳥取城に降伏を促しますが、吉川経家らはこれを拒否したため包囲は継続されます
鳥取城兵の半数である農民らにもはや戦意はなく、ただの餓鬼と化していました。「信長公記」「石見吉川家文書」といった資料から城内の状況をうかがい知ることができます
餓鬼のように痩せ衰えた男女たちは、柵際へ寄ってもだえ苦しみながら「ここから助けてくれ」「出してくれ」と叫んだ。その悲しみと哀れなる様子は、目も当てられなかった。秀吉の軍は柵に寄せる者をことごとく鉄砲で撃ち殺した
鉄砲で傷を負った者の周りに飢えた者たちが群がり、ナタなどの刃物を手にして手足の関節をバラしその肉を剥がして喰い始めた
特に頭部が美味と見られ、餓鬼どもは首を奪い合い、取った者は首を抱えてその場から逃げ出した
死肉を喰い合う餓鬼の巣窟と化しただけなく、城内では排泄物が至る所に転げ落ち、病までもが蔓延していたので、まさにこの世の地獄と化していました








