要害も 食料断ち 渇き殺し

翌1578年(天正6年)に突如として三木城の別所長治が毛利方へと離反。さらに翌年には摂津有岡城の荒木村重までもが毛利方へと離反し、秀吉軍は危機へと陥ります

太閤ケ平方向へ向かう

しかし、徐々に秀吉軍は体勢を立て直し形勢は逆転

軍師である竹中半兵衛が逝去するという不幸に見舞われますが、備前の宇喜多秀家の織田家への臣従や有岡城の攻略を経て、

山上ノ丸東側最前線「十神砦」跡

1580年(天正8年)に三木城を兵糧攻めである「干し殺し」によって落城させます

播磨国内の反織田勢力の駆逐に成功した秀吉軍は同年に再び但馬に進撃し、山名祐豊が籠る有子山城を陥落させ、但馬山名家を降伏させることに成功します

但馬を攻略した秀吉は軍勢を率いて因幡へと進行を開始

豊国の守る鳥取城を包囲します

この戦いは3カ月近くにも及びましたが、もはや勝ち目はないと悟った山名豊国は降伏を申し出ます

十神林道分岐

徹底抗戦を主張する山名家臣の森下道誉と中村春続はこの豊国の降伏に激怒し、なんと豊国を鳥取城より追放し、毛利家に救援を要請します

※一説では毛利の援軍到着後も豊国は鳥取城にいたが、密かに秀吉と通じていたことが発覚したため追放されたとの説もある

久松山と本陣山の鞍部

クマ出没看板

鳥取城からの要請を受けた吉川元春は要請を承諾し、援軍として家臣の牛尾元貞を派遣します。しかし鳥取城を巡る戦闘で牛尾元貞は負傷してしまったため(※討死説もあり)、新たに石見吉川家当主である吉川経家(つねいえ)が援軍として派遣されます

こうして援軍の総大将を任せられた経家でしたが、籠城側劣勢の情報は伝わっており、経家は出陣の際に自らの首桶を持参して鳥取城に向かったとされています

無事に鳥取城に入城した経家でしたが、鳥取城の兵力は援軍を合わせて約4000人ほど。さっそく経家は鳥取城の防備に取り掛かるのですが、ここで思いもよらぬ事態が発覚します