三氏が 争奪戦を 繰り広げ
鳥取城山上ノ丸・出丸石垣
かつては一族で十一か国もの守護職を独占し、「六分の一殿」とも呼ばれていた大大名の山名氏でしたが、
一部崩れてます
戦国期においては但馬守護山名家と因幡守護山名家に分裂し争っていたため、かつての威光はすでになく、気付けば西国の雄となった毛利家と尼子家に翻弄される一大名へと転落していた
国府町方向
そのような状況の中、因幡山名家の客将であった武田高信は毛利家と結び、鳥取城を拠点として因幡山名家を掌握するのですが、
自然の要害
今度は但馬山名家の山名豊国が山中幸盛(鹿之助)率いる尼子残党軍と結びつき、鳥取城を攻め落とします
土塁断層の上に石垣
尼子家残党の支援を受けて因幡山名家を継いだ山名豊国は鳥取城を本城としますが、1573年(天正元年)に毛利両川の一人である吉川元春がすかさず鳥取城を攻撃したため、豊国はあっさりと毛利家に降伏してしまいます
眼下の建物は県庁
その後も毛利家と尼子残党の間を行ったり来たりする山名豊国と鳥取城でしたが、1575年(天正3年)の毛利家の侵攻を機に山名豊国は再び毛利家に追従
4000人の入れる宿舎がないから野宿だった?
山名豊国は毛利家より因幡領主としての地位を認められます
中央を席巻していた信長は山陽、山陰方面に勢力を拡大する毛利家に対し、羽柴秀吉に中国方面の攻略を命じます
南坂下り口
1577年(天正5年)10月、信長の命を受けた秀吉は播磨に出陣し、別所長治や小寺政職らを従えさせると、播磨の大部分を平定
さらに但馬方面に進撃し、毛利と誼を通じる太田垣氏が守る竹田城を攻め落とします
その後、小寺官兵衛から姫路城を譲られると、秀吉はここを拠点として本格的に中国の毛利攻めに取り掛かります











