天守台 久松山 山頂に

6月、羽柴秀吉は2万の兵で鳥取城に侵攻してきて包囲します

福田大兄85歳を追う

黒田官兵衛の策でやみくもに力押しはせず、鳥取城と外部との連絡だけを潰していきました

山上二ノ丸跡から鳥取市街

城は糧道を断たれ、陸、海からの食糧搬入も失敗。食料が尽くと、家畜や草を食べ、それも尽きると餓死者が出始めます

鳥取城内は「餓死した人の肉を切り食い合った。子は親を食し、弟は兄を食した」と言われる程の有り様になりました

二ノ丸跡

羽柴秀吉の鳥取城包囲網が始まって4ヶ月耐えましたが、外部の応援が無いことから降伏の話し合いが持たれました

車井戸

羽柴秀吉は吉川経家の粘りを称賛し、責任は鳥取城を預かっていた山名家の家臣に取らせるよう提案します

天守台263mから千代川・日本海

それに吉川経家が異を唱え、自分一人の自害で城兵全員の助命を願います

鳥取砂丘

再三秀吉は吉川経家を止めましたが、経家は聞きません。秀吉は安土にいる信長に確認を取り、信長は経家の自害で城兵全員の助命を裁定しました

鳥取港・賀露漁港

吉川経家は自害する事になりました。この自害の瞬間に関して話が克明に残っています。安芸吉川氏(吉川元春が当主となっている吉川家宗家)の家臣に山県長茂という人がいました

鳥取空港・伏野海岸

山県長茂は吉川経家が鳥取城に入城する際に一緒に城に入っています。そして経家が自害の際には小姓として現場にいました

国府町方向

鳥取城が落城すると、山県長茂は安芸国に生還します。戦国時代が終り、毛利家も安芸吉川家も周防国に転封すると山県長茂も従い、その後も吉川家に仕えました

本陣山・太閤平

信長が出陣することを前提に秀吉が築いたとされる

晩年、山県長茂は吉川経家の孫、吉川正実に宛てて「山県長茂覚書」を残します。この中の多くが鳥取城の籠城についてであり、吉川経家の自害に関しても含まれていました。これが現在まで残っており、自害の瞬間という記録に残らないような話が今日まで伝わる由縁となりました

互いの動きが分かる位置

声も聞こえるほどの距離感