元就室 吉川家より 嫁入りす

室町時代中期、戦国時代に入ると安芸吉川家は同じ安芸国の国人(地域の小領主)毛利家と姻戚関係を築きます

中坂登山口

特に毛利元就の妻となる妙玖(みょうきゅう)を嫁がせ、その間に生まれた元就の次男吉川元春が養子として安芸吉川家に入ります

石見吉川家の当主であった吉川経安も毛利家に臣従しました。吉川経安は手柄を挙げ毛利家から石見国福光と石見銀山の管理を任されました

こうして中国地方の大国毛利家の家臣となった吉川経安の子として吉川経家は生まれます

天文16年(1547)、吉川経家は石見吉川氏の当主であった吉川経安の長男として生まれ永禄3年(1560)に元服しました

八幡宮跡

経家が元服する前年の永禄2年(1559)、毛利家は石見小笠原家を攻めました。経家の父、吉川経安はこの戦いで武功を挙げ石見福光の地を与えられます

ところがこの小笠原家討伐に不満を抱いた者がいました、石見の国人であった福屋隆兼です

毛利家は勝ったことで福屋隆兼に領地を与えましたが、それまで福屋が領していた地は降伏した小笠原家に与えられます。この論功行賞に福屋は不服を抱きました

永禄3年(1560)、福屋隆兼は毛利家を離れ出雲の尼子家に鞍替えしました。そして近隣にあった吉川経安の福光城を攻めます

吉川経安は迎撃し、当時としては珍しい火縄銃を使用する事で撃退しました。吉川経家も若年ながら参戦し、大きく戦っています

吉川家が属していた毛利家は出雲の尼子家を倒し、中国地方を中心に西は北九州から東は播磨国(現在の兵庫県南西部)にまで伺う程の大名となりました。この毛利家の拡張途中の天正2年(1574)、吉川経安は石見吉川家の家督を嫡男経家に譲りました