武士(もののふ)の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖(すみか)なるらん・・・吉川経家辞世の句
三階櫓跡
自害後、その首は秀吉の下に届けられた。秀吉は首を見るなり「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたと伝わる
その後、安土の織田信長のもとに送られ、信長によって丁重に葬られた
二ノ丸、現役の頃仲間たちと花見をした
墓所は城内の青木局と呼ばれる場所に建てられたが、慶長6年(1601)に池田長吉が入城して城を改修した際に、城外の円護寺五反田に移された
平成5年(1993)、鳥取城の麓に高さ2.5mの経家の銅像が建立された
二ノ丸走り櫓跡
経家の肖像画は発見されていないため、直系子孫の顔写真などを参考として原画を作成し、銅像を製作した
菱櫓跡
吉川経言(後の吉川広家)宛遺書
我等於鳥取御用罷立候 内々覚悟之前候條 不到忘却候 日本貮ツ之御弓矢於堺 及忰腹候事 末代之可為名誉存候 累年別而御芳情之段 望其期失念不申候存之 程不得申候 随テ奉預候長光刀 息亀寿所へ被遣候堆て可被下候 恐惶謹言 十月二十四日 式部少輔経家 花押 経言様 参人々御中
現代語訳では「毛利と織田が激突した日本二つの弓矢の境目で切腹できることは末代までの名誉と存じます」
子供宛遺書
とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらへ候
ひゃう(ろう)つきはて候まゝ 我ら一人御ようにたち
おのおのをたすけ申し 一もんのなをあげ候
そのしあわせものがたり
おきゝあるべく候 かしこ
てん正九 十月二十五日 つね家 花押
あちやこ 申し給へ かめしゆ まいる かめ五 とく五
山下ノ丸跡
鳥取の事、夜昼二百日、こらえたが兵糧が尽き果てた。そこで我ら一人がご用に立ち、みんなを助けて、吉川一門の名をあげた。その幸せな物語を聞いてほしい
中坂稲荷神社 鳥居
アゲハ蝶紋










