名城 鳥取城に 籠城す
鳥取城の城番を務めるために因幡国へ出立するにあたり、経家は討死も覚悟して嫡男の亀寿丸(後の吉川経実)に所領の譲状を作成し、船で因幡国へ向かった
経家が鳥取城に入城するにあたっては鳥取城に在番する毛利勢や因幡国の国人衆から歓待を受けており、鳥取城に在番していた毛利勢が千代川河口の賀露まで経家を迎えに赴き、
因幡衆の各家からは迎えの家臣が鳥取城の麓で出迎え、翌3月19日に因幡衆の各家の当主と対面している
このような歓待に感激したためか、経家は3月20日付けの書状において、因幡国へ赴いたことは世間への聞こえ、場所、城の立派さ、歴々の中から選ばれた事など、全てこれ以上は望むべくもない程のことであり、
日本でも有名な名城である鳥取城に籠もって毛利家の役に立ち、名誉を後世まで残すことは昔から未来に至るまでこれ以上の望みはないと述べている
経家が鳥取城に入城した際の鳥取城の守備兵は山名氏配下が1,000名、毛利氏配下が800人、近隣の籠城志願の農民兵が2,000人の、おおよそ4,000人であった
経家はすぐさま防衛線の構築に取り掛かり、籠城の準備を進めたが、兵糧の蓄えがおおよそ平時城兵3か月分しかなかった
これは因幡国内の米は秀吉の密命によって潜入した若狭国の商人によって全て高値で買い漁られ、その高値に釣られた鳥取城の城兵が備蓄していた兵糧米を売り払ったためであった
このまま行けば兵糧はひと月持つかどうかも怪しい状態であった
6月、経家の予測より早く羽柴秀吉率いる2万の軍勢が因幡に侵攻し、7月に鳥取城を包囲、攻撃を開始した
秀吉は無闇に手を出さず、黒田孝高の献策により包囲網を維持し続けた
鳥取城は包囲網により糧道を断たれ、陸路および海路を使った兵糧搬入作戦も失敗する











