逼迫し 吉川経家に 白羽の矢
大手門を入ると桝形になっている
天正8年(1580年)末時点の毛利氏の主戦場は、美作国における祝山城をめぐる宇喜多氏との攻防と南条元続が守る伯耆国の羽衣石城攻めであり、因幡国への大規模な派兵は祝山城を守り切った上で羽衣石城を攻め落としてからでない限り困難であった
さらに、天正9年(1581)1月に因幡宮吉城の田公新介が毛利氏を離反して西因幡と鳥取城を結ぶ内陸部の交通路を遮断した
天正9年(1581)に比定される吉川元春の書状によると鳥取城の兵糧や弾薬が不足しているなど守備が困難な状況が記されると共に、
出雲国の真山城または末次城を居城とする末次元康(毛利元康)の派遣や、安芸国からの援軍の派遣については輝元が消極的であったことが記されており、
鳥取城番を引き受ける人物が容易には見つからなかったと推定される
そこで、山陰方面の戦線を統括する吉川氏の同族であり、吉川元長と固い絆で結ばれている経家に白羽の矢が立ったと考えられている
同書状にて「式部手前之事、むつかしく申候哉(経家が恩賞のことについて難しいことを言っているのですが)」と述べており、
鳥取城番が危険な任務であることを認識すると共に、経家個人はともかく、経家と共に鳥取城に赴く石見吉川氏家臣団の納得を得るための恩賞が必要となることから、
経家は鳥取城番を受諾するにあたって過大な恩賞を要求したことが窺われ、元春と元長は1月14日付の書状で経家に600石の恩賞を約束したが、
太鼓門石垣跡
因幡国での給付であるため織田勢に勝利しなければ獲得できないという厳しい条件の恩賞であった











