城将 吉川経家 武士の誉れ

秀吉と戦った吉川経家の像

秀吉が助命の勧めに対しても城将としての責任を一身に背負って切腹する潔さ、子どもたちに宛てた手紙の内容に胸を打たれる

秀吉の鳥取城攻めの際に吉川元春から派遣され、城将として部下400人を率いて入城し、秀吉の飢え殺しを受けて開城した

天文16年(1547) 、大内義隆に従う石見国の国人である石見吉川氏当主・吉川経安の嫡男として生まれる

毛利元就の次男・吉川元春が家督を相続していた吉川惣領家も毛利氏と共に大内氏から離反しているが、経家の父・経安が当主を務める石見吉川氏は引き続き大内義長に従った

天正8年(1580)6月、信長の命を受けた秀吉による第一次因幡国侵攻により、毛利方の鳥取城主主・山名豊国は織田氏に降伏した

羽柴秀吉が因幡国と但馬国の仕置きを終えて播磨国姫路に引き揚げると、吉川元春は益田氏、石見小笠原氏、佐波氏といった石見国の国人達を動員して伯耆国に進攻し、南条元続の羽衣石城を包囲すると共に因幡国へ進攻する姿勢を見せる

山名豊国の家臣である森下道誉や中村春続らが吉川元春の調略に応じ、山名豊国を鳥取城から追放した上で毛利氏に無条件で鳥取城を引き渡すことを申し出たため、元春は家臣の市川春俊と朝枝春元に兵500~600を派遣して鳥取城を受け取った

鳥取城が再び毛利方に転じたことで、羽柴秀吉の家臣となった尼子旧臣の亀井茲矩が守る鹿野城は孤立状態に追い込まれたが、すぐに決着がつくとみた吉川元春の想定以上に持ちこたえたため、同年10月に秀吉は因幡国に援軍を送ったとみられるが、寡兵であったためか鳥取城の奪回は進まなかった

そこで秀吉は12月に亀井茲矩に対し、来春には信長が西国に出馬し秀吉がその先陣を務め、合わせて亀井茲矩に知行を与える旨の書状を送って戦意を鼓舞したけている

さらに秀吉は、山名豊国によって切腹に追い込まれていた因幡武田氏の武田右衛門の旧臣を味方につけた

日本にかくれなき名山と称された鳥取城へいざ見参

2018年大手登城路復元の第一弾として完成した擬宝珠橋(城郭の復元橋としては国内最長規模を誇る)

大手門(中の御門)

内堀石垣